第6話:くずれ落ちる時

 「あなたは銀八先生に近付き過ぎよ!これは私が預かっておくわ!」

 現国の課題を集めて銀ちゃんに渡す予定が、半ば強制的にさっちゃんと交換させられ、結果的に私は坂本先生を訪ねることになった。プリントの束を片手に目的地へ向かうも、隔離されたような3Zの教室からはどこへ行くにも遠い。数学準備室というのはどこにあるんだろうか。
 
 去年までは、教室と屋上の往復か、移動教室があってもさほど離れていなかった。クラスで浮いた存在の私が頼まれ事をされるわけがなく、各担当の先生が所有する「準備室」には、ほとんど足を踏み入れたことがない。国語準備室を除いて。
 
 うろうろとさまよっているが目的の部屋は見つけられずにいたところ、うっすらと「準備室」の文字が目に入り、ほっとしながらそこへ向かった。なんだか人気のない場所だ。坂本先生は意外と孤独を愛するタイプなんだろうか。 
 なんてことを考えながら一歩近づいた、そのとき。
 
 「あっ…だめ…」
 
 艶めかしい声が耳に入り、動きが止まる。幻聴、だろうか。まさか、坂本先生が、女子生徒と?嘘だ。意外とか、最早そんなレベルではない。聞こえなかったことにして、ここは引き返すべきだろうとつま先に力を入れた。
 
 「し、しんすけ、だめ…」
 
 今度は、動きどころか、思考すらも止められた。聞き間違えであってほしい。いやいや、特別変わった名でもない。彼ではない、そうだ、彼ではない。言い聞かせようにも、先日の会話が蘇り、息を呑んだ。それでも必死に否定したがる私がいて、どうにか振り払おうとするも。
 
 「駄目じゃねェだろ」
 
 極めつけのように、呼吸が、止まった。いつもよりぐんと艶やかな熱を含んでいるけれど、この声は、他の誰でもない。彼だ。体が震える。息ができない。なのに心臓はドンドンと激しく脈打つ。手のひらからするりと零れそうになるプリント。気付くとそれは床に散らばっていた。震える手でかき集め、逃げるように立ち去った。
 
 そのあとのことは、あまりよく覚えていない。記憶にあるのは、普段は豪快で大らかな坂本先生のひどく心配そうな表情。それから、隣の空席。
 
 「なにしけたツラしてやがんでィ」
 「顔色が悪ィな、気分が優れねーか?」
 「だい、じょうぶ…」
 
 ホームルームが終わり足早に去ろうとしたところへ声をかけられた。覗き込む十四郎の目が、心配だと訴えている。なんでもない、大丈夫と繰り返す声は、自分でも分かる程に震えていた。
 
 「大丈夫には見えねェが。、立てるか?」
 「ありがとう、でも、本当に、大丈夫」
 
 明らかに不審だったんだろう。総悟と十四郎が顔を見合わせている。その空気にいたたまれず、何より、苦しくて、どうしようもなくて、もう一度大丈夫だと告げて、教室を出た。
 
 誰にも会いたくなくて、とにかくひとりになりたくて、だけど足がうまく動かなくて、どうにか逃げ込んだのは、屋上だった。
 座り込んで膝を抱える。途端に熱くなった瞼は、あっという間に涙で濡れた。それは次第に嗚咽へと変わる。信じたくなかった。ただの噂話であってほしかった。けれど、この耳で捉えてしまった声が、動かしようのない現実を示している。
 
 思考の大半を占めるあの声を、必死に追い出そうとする。そうでもしなければ、この心臓はあっけなく止まってしまう。彼が、噂されるような人ではないと、誰かに言ってほしかった。
 
 西日の眩しさに、ようやく我に返る。もしかしたら特定の相手かもしれないし、仮に事実として勝手に押し付けた人物像と違っていても彼に非があるわけではない。どうにか自分を言いくるめようと努めるも、張り裂けそうな胸の痛みが治まることは、なかった。
 
 「何してんだ」
 
 音もなく現れたその声に、ハッと振り返る。いや、気付かないだけで、あの錆び付いた扉が開く音は、していたんだろう。
 一番聞きたくない声。一番見たくない顔。一番会いたくない人。それが、目の前にいるという現実。
 
 「オイ…何があった?ひでェ面しやがって」
 
 4月にしては少し冷たい風が運んだのは、女物の香水の香り。涙が、ぴたりと止んだ。
 
 「見損なった」
 「あ?」
 
 考える前に出た言葉に、首を傾げてこちらを見やる。いつもと変わらない顔をして。そうか、だから私は何も知らずにいられたんだ。
 
 「簡潔に言え。今日のてめーは癇に障る」
 「何人いるの?」
 「は?」
 「ああやって関係を持つ相手が、何人いるの?」
 
 顔色が変わった。逆光の中でも、それははっきりと分かった。噂話は事実だったと明確になり、しばらくの沈黙。その間、私は目を逸らさずにいた。先に視線を外したのは、彼だ。
 
 「頼みもしねェのに寄ってくる。俺ァ相手をしてやってるだけだ」
 「あんた、女の子をなんだと思ってんの?!欲求処理の道具だなんて、まさか言わないでしょうね?」
 「…だったらどうする」
 
 言葉が出なかった。代わりに、手が伸びいていた。渇いた音と、じんじんと広がる手のひらの熱。頬を押さえることもなく向けられた鋭い視線。プライドを刺激したんだろう。
 
 「きっと彼女たちはあなたを好いてる。その気持ちを踏みにじって、よくも平気な顔をしていられるものね」
 「断りは入れてるぜ?興味があるのは体だけだってな」
 
 一瞬、開いた口が塞がらなかった。間抜けな顔をしている自覚はある。けれどそれどころではない。唇を噛み締め絞り出した声は、震えている。
 
 「…不誠実にも程がある。最低」
 「誰も俺に誠実さを求めちゃいねェさ」
 「かわいそうな人。たったひとりを愛することなんて、あんたには一生無理ね」
 「愛なんざ、戯れ言だな」
 
 いつもと何ひとつ変わらぬ調子で淡々と答える彼に、もう怒りしかなかった。
 
 「いつかきっと後悔する。気付いてからじゃ遅いのよ」
 
 そう言い捨てて、屋上を去った。怒りに震える体を押さえ込むように腕を抱き歩く。日が落ちかけた廊下に落ちた雫には、見て見ぬ振りをしたままに。