その日、夕餉の時刻を迎えても、幸村は戻らなかった。信玄の使いで出席した会合が長引いているらしい。上田に来てからは夕餉を一人で食すことはなく、政務があろうが幸村が時を共にしてくれていた。仕方がないと割り切っても、やはり寂しく心もとない。それに、昼の佐助の件もある。日が沈んだところで答えが出ているわけもなく、は煮え切らぬ悩みを抱えていた。

様、お食事の支度が整いました」

初日から付き添ってくれている女中に声を掛けられ、礼を述べる。一緒に食べませんかと誘ってみたが、大慌てをし、そんな恐れ多いことをと頭を下げられてしまう。
祖母が亡くなってから、一人での食事など慣れていた。しかし、誰かと過ごすその時間の温かさを思い出させたのは、幸村だった。

恒例となっていた毒見を見守り、諦めて食事に手を付けようとした瞬間、ふと気配を感じて、は腰を上げる。襖の向こうに映る影は佐助だ。普段なら、食事を共にせずとも、同室で会話に参加してくれる彼が、今日は部屋の外にいる。昼の一件で気を遣っているのだろう。

「佐助さん?そんなところに隠れていないで、こちらにいらしてください。一人なんて心細いじゃないですか」

が声を掛ければ、参ったなと頬を掻きながら佐助が入室する。一流の忍が、戦を知らない女の目を欺くなどわけもないはずだ。が佐助の存在に気付くことを見越して、佐助はそこにいた。顔を合わせづらくはあったが、やはりが気に掛かる。一人にしておきたくなかった。

「あの、佐助さん。今日は幸村もいないから、一緒にお食事いかがですか?」
「え?いや俺様は、忍だし、旦那じゃなくたって、旦那の客人と同席するわけには、」
「そうですか。一人寂しく食べていろと。そう言いたいんですね。ひどい人」
「そんなあ、ひどいのはどっちよ?いやあ、参ったな・・・」

はわざとらしく唇を尖らせ佐助を睨んでみせた。その視線を受けた佐助は、降参と言わんばかりに肩を竦めて両手を上げた。すぐに二人分の食事が用意され、最初は躊躇っていた佐助もに急かされ箸を進めていく。

「あ、そうそう、旦那、もう戻ってくるって」
「でも、大切な席なんでしょう?退席して平気なんですか?」
「あの人も不器用だけど素直だからね。ちゃんに会いたいんでしょ」

だって明日には帰ってしまうから。そう続けようとしたが飲み込み、悟られぬよう微笑んだ。佐助の言葉に、は困ったような笑みを浮かべながら、まったくあの子は、と呟く。まるで我が子を思う母親だ。

もし、幸村がを連れ帰って来ていたら。もし、こちらの世界でを見つけたのが自分だったら。仮定したところで意味のない「もしも」を佐助は頭の中で繰り返す。考えさせてくれと言ったものの、が佐助を選ぶ確率など無いに等しい。だが、もしかすると。なんて、万に一つの可能性に希望を抱いてしまっているのが現状だ。

まるで何事もなかったかのように会話を楽しむだが、気遣うような視線や言葉尻から、微かな動揺は見受けられる。忘れているわけでも、なかったことにするわけでもなさそうだ。しかし、その態度が、上田を去ると決めているからなのか、前向きに検討しているからなのか、どちらかは佐助にも見抜くことはできなかった。

殿!ただいま戻りました。体調は如何された?顔色は悪くないようにお見受けしますが・・・」

ばたばたと大きな足音が聞こえたかと思えば、息を切らして幸村が飛び込んでくる。心配だと顔に書いてあるような表情と上目使いでの顔を覗き込む。今朝の仮病など、も佐助も遠い過去のように忘れてしまっていたので、しばしの沈黙を経たのち、どちらともなく吹き出した。

「な、なにが可笑しいのでござりましょう?」
「違うよ幸村。心配かけてごめん。もう、なんともないから安心して。ね?」
「それならば、よいのですが・・・佐助、お前はいつまで笑っておるのだ!」

と佐助の間に割って入るように幸村は立ち入り、あれやこれやと佐助に言い付ける。その様子を眺めながら、はどうしても笑わずにはいられなかった。主従関係にも様々だと、政宗と小十郎を思い出す。さて、自分はどうしたものか。決断の時は迫り、いつの間にかの顔から微笑みは消えていた。

と佐助の交わした会話など知る由もない幸村は、最後の夜を惜しむようになかなかの傍を離れず、の家で共に過ごした日の思い出や、上田での生活について、あれこれと語り、また、に感想を求める。
城内は静まり返っているというのにの部屋だけは賑やかで、時間も忘れて3人はその時を楽しんだ。しかし誰よりも先に、やはり幸村の目にまどろみが浮かび、仕舞いには船を漕ぎはじめてしまったので、やれやれと佐助は幸村の腕を引っ張り、寝床へ連れて行こうと立ち上がらせる。

「それがしは、まだ、ねむらぬぞ・・・」
「ハイハイ、わかってるよ。旦那はまだ寝ない」
どのと、はなしを、するのだ・・・」
「うん、そうだね。ちゃんとお話したいね」
どのと、はなれたくなど・・・」

ついに瞼が閉じきってしまったので佐助は溜め息を吐きながら己の主を抱えて幸村の部屋へと運び込む。最後の言葉を聞き俯いたは見なかったことにして、おやすみと告げた。

「旦那、俺様も同じだよ。ちゃんと離れたくない。主従揃って馬鹿だね、本当」

幸村を寝かせながら自嘲気味に呟く。こんな時、眠ってしまえたらどれだけ楽だろうか、と佐助は天井を仰いだ。しかし忍である以上、この長い夜に身を潜めてじっと朝を待たねばならない。休息など束の間だ。まるで、負け戦の前夜のように、静かな、長い夜だった。


翌日、政宗は馬を走らせていた。予定していた到着時刻は昼だったが、日が昇り切る前には着きそうだ。
十日という期間は、政宗にとって、信じ難いほど長いものだった。つい部屋を覗いてしまったり、なあ、と思わず右を向いて声を掛けてしまう。そのたびに、からっぽの空間に苦笑いを浮かべては、目を閉じての姿を思い浮かべる。そんな日々が続いていた。しかし、それも終わる。もう間もなく、現実のに触れることができる。そう思えば、手綱を握る手にも力が入る。

上田城の天守が見えてくると、人知れず口元に笑みを携え、付き従う兵らに声を掛けた。仮にも同盟を結ぶ仲だというのに、政宗を始めとする伊達軍の面々は、まるで敵地へ赴く戦士そのものといった顔付きで、の待つ上田へと急いだ。

「政宗殿、ようこそお越しくださりました。手合わせを願いたいところにござりますが、政宗殿はそれより気に掛かる事柄があることでしょう」
「Huh?当たり前だろ、何のためにわざわざ来たと思ってんだ」

案内された広い板の間の一室で、政宗と幸村は顔を合わせている。のことがなければ、互いにここぞとばかり、刀と槍を交えていた所だろう。しかし政宗にはまるでその気はないし、幸村とて口ではああ言ったものの、今政宗と手合わせをするなど本気で考えているわけではない。
しばらく視線を交わしたあと、ふっとそれを逸らした幸村が、殿をお連れいたしまする、と一礼をして退室した。その後間もなくして、幸村、そして佐助と共には現れたが、政宗に向けられた笑顔は心からのそれではなかった。

「Hey, 。元気にしてたか?」
「政宗さんも、お変わりなくて何よりです」

確かに、互いの視線は合わさっているはずだ。なのに、の瞳は政宗を映そうとしていないように政宗には見えた。目を逸らしたいという本心を隠して、どうにか政宗に向けているような、そんな瞳をしている。追求したい。何を隠している、と今ここで問うてしまいたい。しかし半月に及ぶ我慢は政宗の忍耐を磨いていた。ぐっと堪えて徐にを抱き寄せる。そして、の後ろでその様子を見ていた忍に視線を移した。

「まったく、お熱いったらありゃしないね。目の毒だよ。見せ付けたい気持ちは分かるけど、旦那が倒れちゃうからやめてもらえる?」

佐助の言葉通り、幸村は頬どころか耳まで紅潮させ、体を硬くし、おまけに不器用に視線を泳がせている。幸村には悪いが知ったこっちゃない。幸村が倒れようが破廉恥と騒ぎ立てようが、政宗は佐助に見せ付けているのだ。これは俺の女だ、と誇示したかった。
しかし、佐助の声に反応するように腕の中のが、ほんのわずかに身じろぐ。それはまるで、佐助の前で抱きしめられるのを拒むかのようだ。政宗は目を見開き、そっとを離した。その表情には、ありありと困惑の色が浮かべられている。

「政宗殿!政宗殿もお疲れと存じる。しばし、上田で休息をとられては?某がもてなしますぞ!」

ようやく我に返った幸村が、一瞬流れた不穏な空気を断ち切るように割って入る。幸村の呼びかけにどうしたものかと思案した政宗だったが、明らかに安堵の表情を浮かべたを見て、政宗はひどく傷付いた。上田での十日間は、政宗からを遠ざけてしまっていたのだ、と。


「はい」

呼べば顔を上げる。しかし、返事に添えられた微笑みは作られたものだ。それを見破れぬ程政宗は愚かな男ではない。また、いつまでも無視できる程にも、まだ大人になりきれてはいなかった。

「何を考えてんだ?」
「何って、いやだ政宗さん、なんだか怖いですよ。政宗さんこそ、どうしたんですか?」
「俺が聞いてんだよ。What's on your mind?」

を捉えた政宗の視線は、が見たことのないくらいに鋭いものだった。その隻眼は、どうにかこしらえたの笑みをいとも容易く打ち砕いてしまう。しかし、答えることなどできるものか。上田に留まろうか迷っている、などと、どの口が言えたものか。政宗の求める返答を与えることができず、再び俯き、ごめんなさいとか細い声で唱えるだけに終わる。

「謝るってことは、後ろめたい何かがあんのか?なあ、、俺の目を見ろ」
「ま、まあまあ、政宗殿、殿は先日体調を崩されたばかりで、その名残があるのやもしれませぬ。今日は泊まっていかれては如何にござるか?一日ゆるりと休めば、殿も回復しましょう」

物言わぬに苛立ちが募り、政宗の語尾に一層強さが増した。それを制した幸村は、を庇うように二人の間に入り込む。

「某がもてなすと申したばかりにござるな!さあ、政宗殿ご案内いたしまする。殿は、部屋で休んでいただくゆえ、ここは某が」

幸村の必死の誘いに、チッと舌打ちをした政宗だったが、いまだに顔を上げぬをそのまま連れ帰るのはどうも納得いかないし、体調を崩していたとは初耳だ。その影響があるのならば、幸村の言うとおり休ませておくべきかもしれない。

「部屋に戻ろっか、ちゃん」

どうしたものかと決めあぐねていた政宗であったが、躊躇いもなくに寄り添い手を重ねた佐助を見てしまえば、苛立ちに任せて部屋をあとにするだけだった。その瞬間、あからさまに向けられた敵意の眼差しに政宗は立ち止まり振り返る。それは、相変わらずの手を握ったままの佐助で、その目は、戦場で見るそれと寸分の違いもない程、好戦的なものだった。


佐助に連れられ部屋へ戻ったはへたりとその場に座り込んだ。政宗の目、声、どれも今までに向けられたことのない、それらだった。押し寄せる嗚咽の兆しをぐっと飲み込み唇を噛む。

ちゃん・・・こんなときに言うのは卑怯だって分かってる。でも俺には後がないんだ。答えを、聞かせてくれないかな?旦那は誰よりもちゃんを大切にするはずだし、何があっても俺様がちゃんを守るよ。だから、傍に、いてくれないか?」

は倒れてしまいそうだった。瓜二つだろうが、同姓同名だろうが、確かにあの佐助とこの佐助は別人だ。なのに、この佐助は、あの佐助と同じ台詞を口にする。

がどこにいても必ず見つけて、俺様がを守ってあげるから』

それに呼応するように、祖母の言葉が蘇る。

『その人はね、どれだけ時が流れても変わらずにお前を愛してくれるだろうさ』

佐助なのだろうか。が追い求めていた運命の人は、ここにいる、佐助だったのだろうか。尋ねてみても、答えてくれる人はいない。進むべき道を決めるのは自身だ。

ゆっくりと目を閉じれば、奥州での日々が浮かび上がる。離すまいと捕らえるような政宗の目、休む間もなく紡がれる甘い囁き。それらは緩く優しくを虜にし、誘われるように、引きずり込まれるように、は政宗に惹かれていった。そして再び目を開けば、十日間過ごした上田の一室と、縋るような眼差しでを見つめる佐助。
は、自身の肩をぐっと抱き、倒れてしまわぬように意識を集中させた。己が求めているのは一体誰だと、奥底で渦巻きながらも姿を見せようとしない衷心に、その本意を問うた。

その様子をただ見つめることしかできない佐助は、己が忍であることすら忘れて願った。この命を懸けてでも、どうか、彼女を自分に与えてくれまいか、と。