第10話:つないだ指先
大丈夫、大丈夫と自己暗示をかけながら家を出たけれど、一歩一歩がとても重い。緊張が緊張を呼んでいる。嫌われているかもしれない。口をきいてくれないかもしれない。目すら合わせてくれないかもしれない。かもしれない、が頭から離れない。それが一層、足を重くする。
校舎が見える頃には、既に満身創痍だった。
教室の扉を開ける。いない。これは何も不思議じゃない。彼がこんな時間から来ているわけがないのだから。深呼吸をして、席に着いた。
「生きてたか、」
「総悟おはよう。この間はごめんね。具合が悪くてさ」
「土方の野郎が1日中心配しててウザかったぜ。死ねばいいのに」
「どさくさに紛れて俺を殺すんじゃねェ」
「十四郎、心配してくれてたんだ。ありがとう」
「いや、まァ、なんだ、元気そうで何よりだ」
「そうそう、お前も土方さんのように図太くならねェと」
相変わらず口が悪い。特に彼に対しては、並々ならぬ暴言の数々だ。十四郎が思い切り頭を叩こうとするも見事にかわし飄々としているけれど、十四郎と同じように総悟も心配してくれていたらしい。少し、胸が痛い。
予鈴が鳴る。彼は来ない。銀ちゃんがけだるそうにやってきた。彼は来ない。ホームルームが始まる。彼は、来ない。
今日は会えないかもしれない。私の顔なんて見たくないのかもしれない。かもしれない、が再び思考を支配する。スカートの裾を握った、そのとき、扉が開く。
「もう15分早けりゃ間に合うだろ、高杉。遅れて来んのがかっこいいとか思ってんじゃねーぞ」
銀ちゃんは、いつも通り。私は、心臓がうるさくて、息が詰まりそうで、どうにか生き長らえている。
隣の席が埋まった。顔を見れない。体が硬直している。けれど分かった。視線を、感じる。顔を上げられぬまま、ホームルームは終わった。
「」
肩がびくついた。唾を飲み込んで、ゆっくりと、恐る恐る、呼ばれた先に視線を向けると、見たこともない顔をした彼がそこにいる。
「お、おはよう、高杉くん」
「話がある。昼でいい。屋上に、来い」
返事をする前に、その人は出て行ってしまった。何を考えているか分からない表情で。おかげで、かもしれない、の波が再び訪れる。
授業の内容は何一つとして耳に入らなかった。死刑宣告を待つ囚人は、こんな気持ちなんだろうか。
4時限目の終わりを告げる鐘が鳴り、判決の時がやってきた。足が震える。立ち止まってしまいたい。けれど前に進まなければならないし、その時は確実に近付いている。錆びた鉄の扉が重い。いっそ開かなければいいのに、と思ってしまうほど。
「…来たか」
「私も、話がある。いい?」
「こっちが先だ。呼んだのは俺だろ」
いつもより、低く響く声。不安を掻き立てる。こんな日に限って嫌味のように空はやたらと青くて、雲ひとつない。
「全て切った」
「…何の話?」
相変わらず読めない表情のせいか、頭が回らない。
「女だ」
「え…」
「許されるとは思っちゃいねェよ。思っちゃいねェが、信じてくれ」
「信じる、って、」
射抜かれそうな視線。どこか苦しげな表情。絞り出されたような声。目が、耳が、頭が、心臓が、支配されていく。
「気付いてからでは遅い。てめーの言ったことは間違っちゃいねェ。だが、たったひとりを…お前を想う痛みを、知った。一生無理だとお前が断言したそれだけは、外れたようだな」
一呼吸置いてから、目頭が一気に熱を持つ。彼の言葉が意味する事実を頭が受け入れたから。視界が滲み、溢れた雫が頬をつたう。
「その涙が俺のためだと自惚れんのは、馬鹿が過ぎるか?」
「バカだよ。今更、そんなの、ずる過ぎる」
「あァ、卑怯な真似をしている自覚はあるさ。だが、これがその馬鹿が出した答えだ」
彼の指先がこちらへ向けられる。手を伸ばせば届く距離。
「嫌ならこの手を払え」
そんな言い方、ずるい。どこまでも卑怯。払いのけることなんて、できるわけがないのに。
「触れたいよ。嬉しくてたまらない。でも…でも…怖い」
「…俺が、怖ェか?」
「その手に触れてしまえば、怖くなる。高杉くんが手を離してしまう日を考えずにはいられない。それが、とても怖い」
思いが通じた喜び。それと同じぐらいの不安が胸をざわめかせる。一度触れてしまえば、離せなくなる。彼を失うことが、怖い。ならば始めから、知らない方がいい。そんな、身勝手な思考がぐるぐると回る。
「離しやしねェさ。ひとりしかいねェ女の手を離せるほどは、馬鹿じゃねーよ」
「離さないって、約束する?」
「お前が望むなら、地獄に落ちようとな」
「ねえ、好きでいていいの?」
「それこそ今更だ」
彼の手は差し伸べられたまま。その手に、ゆっくりと、触れた。熱が伝わる。指先から溶けてしまいそうな体温。
「ひどいこといっぱい言ってごめん。叩いてしまってごめん」
「謝罪は要らねー。それをしなきゃなんねェのは俺だ」
「理想を勝手に押し付けた。ごめん」
「やめろ。こっちは二度も泣かせてんだ。女の涙に惑わされるなんざ、考えたこともなかったが…存外堪える」
触れ合った手が、指先から、どちらからともなく、絡まる。と同時に、勢いよく引き寄せられた。
「お前のいねェ1日、がらんどうだった。それを埋められんのは、てめーしかいねェんだよ」
「嫌われてるかもしれないと、思ってた」
「それァこっちの台詞だ」
「ずっとずっと、1秒たりとも、あなたが頭から離れなかった」
「奇遇だな、俺もだ」
あまり見せてくれない微笑みが、金縛りのようにこの身の自由を奪った。感覚を取り戻すより先に、物理的な自由も奪われる。私の体を包む彼の腕。火傷してしまいそうなほど、熱い。
「で?の話ってのは?」
「知ってるんでしょう」
「覚悟していた…が、そのツラ見せられて、ぶっ壊れた頭は自分勝手な期待で満たされちまった」
「もしかして、私の気持ちに気付いてた?」
「…まァな」
黒みがかった赤いシャツを握る手に少し力が入った。
「こんな人、なんで好きになったんだろ」
「喧嘩売ってんのか」
「理想のタイプとはかけ離れてるし」
「…そうかよ」
「節操ないし」
「だからそれァ、切った」
「でも結局、嫌いになれなかった。好きで好きで、仕方なかった」
涙で濡れる瞳の向こうの彼は、少し目を見開いている。それからふっと笑み、右手を私の頭に伸ばす。
「てめーのおかげで頭イカレちまった。こうなりゃ道連れだ」
「分かりやすく言って」
「俺の女になれ」
「その女は、私だけ?」
「あァ、当然だ。…だから、頷けよ」
「いいよ、なってあげても。またろくでもないことしないように、傍で見張っててあげる」
「上等だ。そのぐれェの覚悟がねーと俺の女は務まらねェ」
「偉そうに」
「てめーもな」
二人同時に笑みが漏れて、かと思えば、彼の胸に顔を押しつけられていた。線は細いのに、たくましい胸板。
「悔しいけど、好き…」
「あァ、知ってる」
ぴたりと顔を寄せていた胸の鼓動が速くなる。彼の気持ちが伝わる。口にはしてくれないけれど、私には分かった。
それからしばらく、体を密着させたまま、二人きりの時を過ごした。予鈴が鳴り、彼があからさまに舌を打つ、その瞬間まで。途端に羞恥心が広がり、何気ない顔で彼から離れる。
「お昼食べ損ねた」
「こちとら煙草吸い損ねてんだ」
「一緒にしないでよ。…教室、戻ろうか」
「俺も、か?」
「嫌ならいいよ。ひとりで授業受けるから」
面倒くせェ、と溜め息が聞こえた。それでも隣に並んで歩いてくれるものだから、思わず笑ってしまって、案の定睨まれた。けれどその直後、信じられないほどに甘い瞳で見つめられる。一瞬で顔に熱が集まった。満足そうに口角を上げる彼には、一生勝てる気がしない。
「、春は来たか?」
一瞬なにを言っているのかと目をぱちくりさせた、けれど、ああそうかと気付き頷いた。
「うん、ようやく来たみたい」
4月の風が吹く。まだほんのり冷たくはあるけれど、穏やかで心地良くて、それは確かに、待ち望んだ季節の訪れを物語っていた。