第9話:まよなかに訪れる
夜が来る頃には瞼の腫れも引いていて、いくらか気分も落ち着いていた。胸の痛みは、静まることを知らずにいても。そんなずる休みの夜、ひとりの訪問者がいた。
「ったく何やってんだ。気ィ張り過ぎて熱出してんじゃねーぞ」
「ごめんごめん。もう大丈夫。明日はちゃんと行くからさ」
「可愛がってる女子生徒は熱を出し、手を焼いてる不良生徒は様子がおかしくてよ。教師冥利に尽きるわ、マジで。あー、忙しい忙しい」
思わず、持っていたマグカップを落とした。ゴツン、と鈍い音が聞こえて、飲みかけの紅茶は瞬く間に広がった。
意図された発言でなかったことは、分かっている。けれど今の私には余りに酷で、体が反応しないわけがない。
「え?なに、どうした?まだ熱あんの?あー、いいから、おめーは触わんな、拭いてやっから」
慌てて手を伸ばした私を制止し、けだるそうにしながらも、言葉通りにテーブルを拭く。ごめん、ありがとう。ぽつぽつと呟いた声は我ながら腹立たしいほど弱々しい。
「どれ、熱は…なさそうだな。まだ気分悪ィ?寝るか?」
「体調は、なにも、大丈夫」
「日本語おかしくなってんぞ。どうしたよ?高杉とケンカでもしたかァ?……って、え??そうなのか?何が、あった?」
冗談めかした口調に顔が強張ったのが自分でもよく分かった。体が震えてる。昨日のあの声が、フラッシュバックする。
「…なんでも、ない」
「ハイそうですかと納得できるワケねーだろ、その顔で。…高杉と、何があった?」
普段のけだるい声音が変わった。私を見つめるその目は、いつも教室にいる先生のそれではない。子どもの頃からよく知る、兄貴分の顔だった。
「銀ちゃん、私ね、高杉くんが好きだった。…だった、じゃないか、好き、だね」
「…そうか」
「何があったなんて、そんな大それたことじゃなくて。勝手に失恋しただけ」
「お前の気持ちを打ち明けたのか?」
「言ってない。でも、失恋はした」
「アイツの様子がおかしかったのも、それと関係あんのか?」
「分からないけど、きっと関係ない」
「俺が心配しているようなことはなかった。そう理解していいんだな?」
「うん」
その口振りから嫌でも分かる。銀ちゃんは、知っている、彼の交友関係を。だから、私と彼の間に"そういったこと"があった、と心配をしたのだと確信した。いっそ、それならもっと楽だったのかもしれない。…なんて、人のこと何も言えない。私の方が最低だ。
「アイツは、何かと誤解されやすい。素行は悪ィし、反抗的だし、それから、女関係も、な。けどよ、俺は思ってんだ。ただ不器用なだけだってな。もしがそれを理解してやれるなら、アイツを助けてやれ。それができんのは、だけだ」
「私の言葉なんて、響かないよ」
「そうか?たぶん響きまくるぜ?新八のツッコミなんざ霞むぐれェにな」
「何それ。新八くんかわいそうじゃん」
「やっと笑ったな。お前もアイツも、まだまだガキだ。ぶつかりあって多少のケガして、成長してくんだよ」
銀ちゃんの大きな手が私の頭を撫でた。指先からほのかに煙草の香りが漂うけれど、彼のそれとは違っている。
「ありがと、銀ちゃん」
「だからおめーが素直に礼を言うなんざ隕石落ちっからやめろっての」
「大人のくせに、一言余計だよね」
「おめーもな」
ようやく、笑えた。まだ少し胸は痛むけど、今朝に比べればこのぐらいどうってことない。彼の行ないは女として許し難いけれど、私も言い過ぎたし、何より頬を叩いてしまった。
もう大丈夫、と笑えば、また頭を撫でてくれて、なんだか気恥ずかしくなった私に気づいたのか、今度はぐしゃぐしゃと髪を掻きまわす。思わず唇を尖らせ睨んでやれば、可笑しそうに肩を震わせ、必死に笑いを堪えているのがよく分かった。しばらくそうしてから、ソファから腰を上げ伸びをする。
「んじゃーな。早く寝ろよ。んで、明日また教室でそのツラ見せなさい」
そうだ、明日は学校へ行って、彼に会って、謝ろう。口をきいてくれないかもしれない。目すら合わせてくれないかもしれない。だけど、信じてみよう。だって彼は不器用なだけなんだと、教えてくれたから。私も同じ。不器用同士、ぶつかってみるのも悪くない。