その吐息が喉を焼く

昔から、煙草が好きじゃなかった。それも、子どもが居ようが客が来ようが構わずプカプカと煙草を吹かしていた父親の影響だろう。
勿論それだけではないが、実家を出た主な原因の一つが父の煙草だと言っても過言ではない。
そのせいか、喫煙者に対しては無条件で嫌悪感を抱いてきたし、その臭いを嗅ぐだけで頭痛を覚える程には受け付けられなくなっていた。

そんな私が、今、ヘビースモーカーで知られる男に口内を蹂躙されているのだから、人間とは不思議な生き物だと思わざるを得ない。
鼻先を掠めるどころか、口内いっぱいに、そして喉を通り過ぎて肺にまで、あの大嫌いな臭いが染み渡っていく。
だのに抵抗をすることもなく、ただ、男の舌を受け入れている。
違う。そもそも私に拒否権など与えられていないのだ。

吐き気がするほど濃厚な煙草の臭いに耐え切れず表情を苦痛に歪めれば、男は意地の悪い笑みを浮かべて更に舌を奥まで押し進めてくるのだから性質が悪い。
しかし唐突に、余りに無抵抗な私に飽きたのかその先へと進むためかは知らぬが、とにかくわざとらしいまでにゆっくりと唇が離されていった。

「随分と辛抱強くなったじゃねェか。息継ぎの仕方も知らずに咽てたガキがよ」

憎らしい文句もその男が唱えれば格好がつくのは外見が成せる業だろう。
冷たい印象を与える切れ長の目と通った鼻筋は、誰が見ても端正な顔立ちだ。
だから嫌でも縁を切らずに付き合ってやっているのだ、と常々零しているが、実の所、付き合ってもらっているのは私の方で、ほんの僅かにでも煩わせれば立ち所に切られてしまうのは承知の上だ。
この男は私を欲求の処理以外に必要とはしていないが、此方はそれこそ息継ぎも出来ぬ位に溺れてしまっているのだから。
あの、大嫌いな煙草の臭いすらも受け入れてしまえる程に。

頭ではそう理解していても、改めて冷静になってみれば虚しさに泣けてくる。
途端に瞼が熱くなり、じんわりと視界が滲み行く様を見ていられずに思わず視線を落とした。
しかし、そんななけなしの感傷すらも許さぬと言うのだろうか、顎を掴まれ否応なしに顔を上げさせられる。

「どこ見てんだ?ったく・・・勝手に泣くなとあれほど言ったはずだがな」

滲む視界の向こう側で男は笑っていた。
笑顔と聞いて連想するのは愉悦や慈愛が一般的だろうが、この場合は違う。
いつの間にか咥えた煙草の先からはゆらゆらと煙が昇り、浮かべられた笑みに優しさなど微塵も感じられない。
苦渋に耐え忍ぶ様子を見て愉しんでいる、そんな、歪んだ笑みなのだから。

鬼の副長という異名を持ちながら周囲からは常識人のように扱われている彼だが、本質はとんでもない性悪だ。
少なくとも、私は常にそう実感している。
煙草を嫌っているのを知りながら見せ付けるようにそれを口にし、逃げ出せないことも逃げ出さないことも分かっていながら平気な顔で好きにしろと吐き捨てる。

更に始末が悪いのは、絶対的な弱みをがっちりと握られてしまっていることだ。
今思えば、あの出会いが運の尽き。

家を飛び出したものの収入のない私が借りられたのは小さなアパートで、初期費用や最低限の生活必需品へ充てただけで手持ちは底をついた。
実家がそこそこ裕福だったこともあり労働を知らない私が職に就けるのは至難の業で、疲労と空腹に耐えかねてお金もないのにコンビニへと足を踏み入れ、誘われるように目に入ったサンドウィッチを鞄に忍ばせようとした、その瞬間。

「おい」

低いがよく通る声に呼び止められ、それと同時に腕を掴まれていた。
恐る恐る振り返れば、街やテレビで何度か目にしたことのある黒い制服と、キレ者として有名な真選組副長の顔。
驚きと恐怖と困惑で声が出て来ず、かと言って逃げる隙などありもしない。
ただ茫然としていると、手にあったサンドウィッチは棚に戻され、男は二言目を発することなく私は店外へと連れ出された。

「万引きの現行犯だ。異論はねェな?」
「ご、ごめんなさい、ほんの出来心だったんです。お願いだから、見逃してください。このとおりです。親に知られたら、私、どうなるか・・・」

謝罪と弁解と、加えて看過を求める言葉を重ねに重ねる。
あの鬼の副長が、はいそうですかと見逃すわけなどないと思いながらも止まらなかった。
半ば家出同然で飛び出してきた身だ。ほんの些細な問題でさえも強制送還の種になりかねないのだから、万引きとなれば考えるまでもない。
連れ戻されたら最後、また籠の中の鳥に逆戻り。二度と抜け出すことなど不可能となる。
ようやく手に入れた自由をこんなところで手放すわけにはいかない。
そんな思いで、己の行為がいかに惨めであるか理解しながら何度も、何度も許しを請うた。

「どんな事情があろうが知ったこっちゃねェ。犯罪は犯罪だ」
「わかってます。自分の犯そうとした罪くらい、わかります。でも、本当に初めてなんです。見逃してもらえるなら何でもしますから、だから、お願い」

どうにか見逃してくれと懇願しながらも諦めを覚え始めた矢先、値踏みをするような視線に気付いた。
どこの出の者か考察でもしているのだろうか、しかし正直そんなのはどうでもいい。
今はただ、見逃してさえくれたらそれでよかった。
この期に及んで、目付きが気に入らないだの偉そうな態度が腹立たしいだの、くだらないプライドで逆撫でするつもりなど更々ない。

「それほど家の者に知られたくねェのか?」
「は、はい・・・!やっと自由になれた身なんです。もう、戻りたくはないんです」

その問いは、さながら土砂降りの中に差し込んだ一筋の光のようで、同情心を煽るなどという卑怯な手を使ってでも、ようやく見えた希望の兆しに縋った。
そうか、と小さく響いた低い声音は神の囁きに違いない。
ああ、よかった。これに懲りて二度と過ちは犯すまい。胸の内でそう誓ったのも束の間。

「じゃあ来い」

え、と疑問を声に出す暇も与えられず、掴まれたままだった腕にこめられた力は強さを増して引っ張られる。
繁華街のネオンは次第に遠ざかり、ぽつぽつと街灯が薄暗く照らす路地まで来たかと思えば、その頼りない光すら届かない路地裏に引き摺り込まれていた。
おまけに人通りもまるでなく、身に迫る危険を察知するには十分すぎる状況だ。
着物に手を掛けられるとさすがに嫌な予感は確信へと変わり、その手を払い除けようとした、はずだった。

「ほォ、抵抗すんのか。しょっぴかれたくねェと懇願したのは誰だ?俺は別にお前がどうなろうと構わねェぜ?」

神様なんかじゃない、悪魔だ。
先程とは違う絶望に全身の力が抜けていくのを感じながら、私は体の所有権を手放した。
初めての行為に恐怖し痛みに涙を流しもしたが、一度きりの屈辱で罪が帳消しになるのであれば耐え抜こう、そう自分自身に言い聞かせながら、地獄の時間が過ぎるのを只管に待った。

しかし、それが如何に安易な期待であったか、翌々日に訪れたバイトの面接先で思い知らされる羽目になる。
人の良さそうな店長から採用と聞かされた瞬間は天にも昇る心地だったが、彼の太鼓判なら断れないからねと微笑む店長の視線の先にあの男の顔を見付けたと同時に、新たな恐怖とこれから始まる逃げ場のない絶望の日々に身を震わせた。

「万引き犯と知っちゃ、さすがのあの店長もお前を不採用にしただろうな」

耳元でそっと通り過ぎていく声。
死刑判決を突き付けられた囚人とは、こんな気分なのかもしれない。

その日は勿論、それ以降も、覆しようのない弱みを常にチラつかせながら、連絡もなしに現れて体を求めてくる。
意を決して煙草が嫌いだと告げてもまるで悪びれる様子がなく、むしろこれみよがしに吹かしてみせる。
呼吸は最小限に抑えて可能な限り顔を遠ざけるよう努めてみるも、目敏く気付かれてしまい、唇を重ねてくるようになった。
どこまでも性根の腐った、性質の悪い人種だ。
だけど、悪夢はそれで終わらなかった。いつの間にか私は、男から与えられる絶望という名の海に身を投げ捨てていたのだから。

そして今日も何時ものようにあの大嫌いな臭いが全身に流れ行く感覚に吐き気を覚えながらもどうにか耐える。
薄れゆく意識の中で消し去りたい記憶を辿っていると、猛烈に押し寄せてきた息苦しさで我に返ると共に、いつまでこんな茶番を続けるの、と、もう一人の自分に問われた気がした。
目の前の犯罪を見過ごし挙句の果てに関係を迫る公務員。それを武器にすれば、十二分に勝算があるではないか。
もう、惨めな思いとはさよならしたい。
今となっては認めざるを得ないこの男への依存とも決別し、己を律せねばならない。
ふつふつと湧いた決意を固めるように右の手の平でそっと拳を作り、口を開きかけた。

「手錠が欲しけりゃくれてやるよ、

聞き慣れてしまった声が初めて発した、私の、名前。
それはまるで、心拍を停止させる宣告のように、心臓を鷲掴み、握り潰す。
告げようとしたはずの別れの言葉は、煙草の臭いが染み付いた唇で塞がれたことによりあっけなく遮られ、私は声を失う。

気付けば身体どころか精神の所有権までをも放棄し、再び我が身を投げていた。
もがいても、もがいても、抜け出すことのできない深い深い海の底に。

公開日:2013.04.27
「つらたん」企画提出
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