雲がちぎれる時

梅雨も終わりに近付いたある日、幾日振りの晴天に心なしか町も活気付いているように見えた。
人間って生き物は至極単純だ。
自分自身もそれに属する一員であるに変わりがないと言えども、晴れだの雨だの、その程度で一喜一憂できるほど単純ではないと自負している。

しかし、負けず劣らずの馬鹿には違いない。
その証拠に、市中見廻りを終えて屯所へ向かう途中いつの間にか定番のコースとなっていた川原へ自然と足が向かっていた。
止せばいいのに、悲しいかなこの足が、引き寄せられるように歩みを進めてしまう。

近付くにつれて聞こえてくる下手糞な歌声。
寺子屋通いのガキでももっと上手く歌えるだろうと溜め息が出るくらい下手だ。
だのにその声は可笑しいほど耳に優しく響いて、一日の激務でくたびれた体に沁みこんでいく。
すっと疲れがとれていくような、ゆるやかな幸福感をもたらすような、心地よさ。

少しスピードを落としながらもう一歩進み寄ると、その下手な歌はぴたりと止んだ。
背後の存在に気が付いたのだろう。
同時に、それの正体にも同時に気が付いたのだろう。

「おまわりさん、調子はどう?」

振り返りもせず、いつもと変わらぬ気の抜けた声で呼びかけられる。

「どうもこうもねェよ。お前こそ、よくも飽きずに空だけ眺めていられるもんだな」
「今日は天気がいいからね」
「雨が降ろうが雪が降ろうが同じように座り込んでるのは、どこの誰だ?」
「はーい、私でーす」

相変わらず振り返らずに答える。
その目がこちらを向くことはなく、そいつはただ、空ばかりを見ている。
変わるものは天気ぐらいで特別面白くもないだろうに、同じ場所に腰を下ろしてずっと見上げているのだ。

その理由を俺は知っている。

「まだ、忘れられねェのか」

一瞬だけ、肩がぴくりと動いたのを俺は見逃さない。
と同時に、その僅かな反応がそいつの動揺を如実に物語っているのが分かった。
どことなく気まずさを覚えて、やれやれと呟きながら隣に腰を下ろす。

同じ場所から同じ空を眺めてみたが、やはり俺には何も感じることができない。

「何事にも適量ってあるでしょ?」

こいつの目に映る空には一体どんな景色が広がっているのか想像してみようと目を閉じたが、脈絡のない問いに邪魔をされる。

「あ?何の話だ」
「忘れるには思い出が少なすぎるの。なのにアイツはそれを抱え込んだまま、私の中の、それも手の届かない場所でどっかりと座り込んでるから、どうしようもないんだ」

あはは、と、まるで笑えていない取って付けたような笑みを貼り付けて寝転んだ。

「着物、汚れるだろうが」
「汚れ役は慣れてますから、お気遣いなく」

かわいげのない女だと思う。
しとやかさもなければ、愛想がいいとはお世辞にも言えない。
だけど、放っておけない。
捨て猫のような目をしているくせに、拾われるのはごめんだと首を振る、その矛盾にどうしても興味を引かれてしまうのだ。
手を差し伸べてやりたくなってしまう。

「おい、
「なあに?」
「辛いなら、弱音くらい吐いてもバチ当たらねェだろ」
「それができればラクなんだけどね」

今度は笑わなかった。
目に一杯の涙を浮かべて、しかしそれを決して零さぬように、ぐっと堪えて一点を見つめている。
泣いてしまえばいいのに。
好きなだけ泣いて、泣いた分だけ一緒に思い出も捨てちまえばいい。
そうすりゃ忘れられんだろうが。
喉の手前で飲み込んだ言葉を頭の中で繰り返せば、それに続いて浮かんだのはひどく身勝手な訴え。

「俺を頼れ」

我慢に耐え兼ねてか、声が漏れてしまっていた。
静かな夜にそれだけが不器用に響いた後、こちらを見つめる丸い瞳と視線がぶつかり、ようやく、自分が仕出かした事の重大さに気付いた。

「あ、いや、」
「へー。頼っていいんだ?」

慌てて訂正しようとしたが、あっけらかんとした問いに制止され、その機会は失われる。

「じゃあ、お願いしてもいい?」
「あァ、言ってみろ」

落ち着きを取り戻すために次のタバコを取り出した。
やはりいくらか焦っているのか思うように火が点かず、ライターのカチカチという音が耳障りだ。
そんな俺を見ながらけらけらと声を上げて笑いながら、まるで女らしくない仕草でこちらを指差す。

「笑ってんじゃねェ。で、なんだよ、言えよ」

やかましい程の笑い声がぴたりと止み、どうしたかと目をやれば、やけに真剣な眼差しが向けられていた。

「あんな奴、早く捕まえちゃってよ」

思わずタバコを落としそうになる。
失いかけた指先の感覚をどうにか持ち直しながら、気付かれぬように小さく溜め息をついた。
うっかりとは言えようやく吐き出した本音をこんな形で潰されるとは、皮肉なものだ。
結局は、こいつは奴のことしか見ていない。
俺が何を言おうが、どんな態度をとろうが、そんなものはおそらく大したことではなくて、頭の中を支配しているのは奴でしかない。
悔しいが、それは覆しようのない事実だ。

「隠れていないで出てくればいいのに、ずるいよね。こっちは、アイツからずっと逃げられずにいるっていうのにさ。見えない鎖で繋がれて、どこにも行けずにいるんだよ。いっそ、殺してくれたらよかったな」
「…馬鹿なこと言うな」

馬鹿はどっちか分からねェがな、と自嘲気味に呟いた声は幸い届かなかったらしい。
相変わらず寝転びながらも睨みつけるように空を仰いでいる。
厄介な話題を持ちかけられる合図だ。

「ねえ、人を斬るのって、どんな気分?」

悪い予感は外れなかった。
こいつの気紛れには慣れたものだが、唐突にこうして答えに困る問いを投げかけてきやがる。
真面目に答える方が馬鹿らしいと呆れることもあるが、時折奇妙なくらい的を射た問いが飛び出すものだから頭が痛い。

「気持ちのいいモンじゃねェな」
「アイツも、そうかな?」
「テロリストの考えることなんざ俺に理解できるわけねェだろうが」
「そっか…。でもね、きっとそうだよ。アイツもきっと同じ。だって、離れていても空はつながってる、なんて言うんだよ?あの顔で。笑っちゃうでしょ」

綻んだ横顔が憎い。
その表情を作るのが、追っても追っても捕まえることのできない指名手配者ならば尚更だ。
それ以上に、己の無力さが、何より憎い。
さっさと奴の居場所を突き止めて思うままに斬ってやりたいが、足取りすらつかめやしない。

、聞け」
「ん?」
「高杉は必ず俺達が捕まえる。それまで、俺がお前の相手してやってもいい」

俺がこいつにしてやれることは、そんな見え透いた照れ隠しに織り交ぜた約束を投げかけるくらいだ。
もちろん破る気なんざ更々ないし、そうでなくても奴に手錠をかけるのが俺の仕事だ。
だから、少し時間はかかるかもしれないが、もうしばらく辛抱してくれ。

「期待してるよ、おまわりさん」

うっすらと潤んだ瞳に見つめられながら、黙って頷いた。
その目に映るもの全てが俺だけになればいいのに、と、また勝手で幼稚な願望を抱きながら、次のタバコに火を点けようとライターを取り出す。
やはりなかなか火が点かないのは、空気が湿り始めたせいだ。

「雲行きが怪しくなってきた。帰るぞ」

きっと、明日は雨が降る。
しかし間もなく梅雨も終わる。

「ねえ」
「あ?」
「今年も、夏が来るね」
「…あァ」

今朝の天気予報によると、今年は猛暑だそうだ。
物のついでに夏の暑さに浮かされて、季節が終わるまでの間くらい奴のことは忘れてみないか。
こればっかりは間違えても声に出せない本音をタバコの箱ごと握り潰し、無造作に投げ出されている小さな手を握った。

公開日:2012.07.16