恋い綴り

眠れない夜が続いて日記を書き始めた。
ぶつける先のない感情を吐き出す場所が欲しかったのかもしれないし、自問自答できる時間を求めていたのかもしれない。

それが習慣になってから三ヶ月ほど経ちふと読み返してみると、悔しいことに一日一回、あの人のことを文字にしていた。
日記の量はまちまちで、三行で終わる日もあれば、一頁びっしりと埋まっているような日もあった。
だけど必ず、その中に一度だけ、あの人について綴っているのだ。
認めたくはないけれど、それは確かに私の字で、紛れもなく私の本音だ。
二度と声には出せない、内に秘めた、あの人への、想い。



あの人は流石とも言うべきか、町で偶然出くわしてもそれと分かるような動揺を見せない。
実際に何とも感じていない可能性だってあるが、私を捉えた瞬間のその目には注意して見ていなければ気付くことのできない程度の微かな、ほんの微かな狼狽が窺える。
思い過ごしか自意識過剰か、もしかしたら身勝手な私の幻覚だということもあり得るが、きっと違う。

そうして張られた静かな防衛線は今日も私の口を閉ざす。
あの人は決まり文句のように「顔色がよくねェな」と眉間に皺を寄せて、私は何も答えずに会釈のみでやり過ごす。
それを見ている沖田君が「土方さん無視されてやすぜィ。いい気味だ」とせせら笑って私の肩にぽんと手を置く。
彼は知っているのか知らぬか、一瞬流れる不穏を断ち切るように茶々を入れるのだ。

まるで録画された映像を再生するかのように毎度同じやり取りを交わし、あの人の小さな溜め息と沖田君のどことなく困ったような視線から逃れるようにその場を離れる。
文字通り、私は逃げていた。


そんな自分への苛立ちもいよいよ募り、今日こそ日記からあの人の存在を消し去ろうと決意を固めながら帰路につく。
しかし不思議なもので、そう決めた途端に家までの道のりがひどく長いように思えた。
一歩一歩がずしりと重たく、着物の裾は行く手を阻むように大袈裟に擦れる。
ぼんやりと浮かぶ月も、頼りない街灯も、全てが抵抗しているように思えて仕方がなくて、そのせいか、進んでいる方向が次第に薄暗くなっていく。
だから、ゆらりと揺れたタバコの煙なんて、そこに居た誰かの姿なんて、そんなものには気付かず通り過ぎようとしたに違いない。

「おい、いつまで無視を続けるつもりだ」

見えぬ振りを通したのだから、聞こえない振りも突き通せば良かった。
斜め下に落とした視線を上げる必要なんてなかった。
背負った荷物を捨てるために、歩き続けるべきだった。
だけど、私の耳はその声を捉えてしまったし、逃げたい心を無視した正直な体は振り返ってしまった。

「いつまで、そんな顔してんだよ」

「・・・誰の、せいよ」

誰のせいで、眠れない夜を抱えて、殺せない本音を飲み込み続けて、目に映る景色を塗り潰そうと努めているというのか。
日に日に増していく目の下の影にため息をつきながら過ごしているというのか。

違う。ぜんぶ、私が自分自身で招いた結果だ。
あの日、抑え続けてきた言葉をお酒の力に負けて吐き出してしまったのは私。
酔いに任せてその言葉を声にした瞬間、まるで魔法が解けるように意識がはっきりと目覚めて、目の前には何も言わずに驚いた表情でこちらを見つめるその人がいた。

放った言葉を取り消せる術はなく、それ以上関わりを持たぬよう努めることが私に出来る精一杯だった。
どう思われようが、もう関係ない。しかし、できるならば忘れてほしい。
それが無理だと言うのなら、この幼稚な芝居に付き合い続けてくれたらそれでよかったのに。
この人はそれを許してはくれず、顔を合わせば何食わぬ顔で声をかけてくるし、今もこうして詰め寄っては反応を求めようとする。

「テメーの言いたいことだけ言って、人の話も聞かずに逃げやがって、大した女だ」


「また、だんまりか?お前は都合が悪くなるとすぐそれだ。ガキと同じだな。素面じゃ話もろくにできねェのか」

まくしたてるような口調で責められても返す言葉は見つからない。
あの日伝えた言葉を今ここで、もう一度口にしろと強要しているようにしか聞こえないが、それが出来るならこんなにも苦しんでいない。


「ハァ・・・ったく、何だってんだ。酔った冗談だなんて言うつもりか?人をその気にさせておいてまた逃げようってんじゃねェだろうな」

少し離れた場所で揺れていた煙が徐々に近くなり、それを目で追うのをやめた頃、随分と近い所にその人の顔があった。
相変わらず眉間に皺を寄せて、不機嫌そうにこちらを見下ろす。
口を閉ざし続ける目の前の女の返答を無言で要求しているような目だ。
視線を合わせていると心の中まで入り込まれてしまいそうで、それが怖くて目を逸らした。

油断していると肥大し破裂してしまいそうな心臓をぐっと押さえつけながら、ぽつりと呟く。

「日記を、書いていたの」
「はぁ?」
「あの日から毎日欠かさず、ずっと」
「おい、人の話を聞け」
「眠ろうとしてもあなたが邪魔して眠れないから、あなたのことなんか早く忘れたくて日記を書くの。でもね、どの頁にも必ず、あなたのことが書かれているのよ。びっくりでしょう?」
「驚きゃしねェよ」

期待していた反応がもらえなかったことに戸惑い、思わず顔を上げた。
先程よりも幾分和らいだように見えるその表情に、体は正直なもので脈打つ速さが不器用に本音をばら撒いている。
この距離だ。きっと向こうにも届いてしまっているだろう。

「お前の見え透いた下心なんざ、とっくの昔から知っていた。隠そうとするから付き合ってやっていただけだ」
「嘘ばっかり。目を丸くしていたじゃない」
「あァ、まさか口に出すとはな、それにァ驚いた」

相変わらずの仏頂面でフゥとタバコの煙を吐き出す。
どうだ?とでも言いたげな目で見下ろされ、すっかり負けた気分になった私の中には返す言葉が一つも見当たらなかった。
実際に負けているのだ。それも完敗。
いつだって白旗を上げ続けているのに降参させてもらえないだけだった。
悔しい。たまには一泡吹かせてやりたい。
そうも思うが、精一杯のつよがりで対抗するのが今の私に残された唯一の手段。

「わかっていながら知らない振り?酷い人」
「必死になって感情を押し殺すの顔が堪らなくてな。しばらくそれを見ているのも悪かねェ」
「悪趣味」
「お互い様だろ。悪趣味な男に好意を寄せる女も同様に悪趣味だろうからな」
「無愛想で暴力的」
「よく分かってんじゃねェか。だが、それに惚れてんのはどこの小娘だ?」
「おまけに自信過剰」
「それだけネタがあれば日記も豪勢だろう。そうだな、話の種に見せてみろ」
「見せるわけないでしょう。馬鹿ね」

なんと言われても、あれ程のひたむきな想いを明るみに出すなんて想像したくもないし、何より、この人のことはもう書かない。
それどころか、日記だってもう終わりだ。
なぜなら、眠れない夜が来ることはもうない、と勝手ながら確信してしまっている私がいたから。
今日からは瞼を腫らすこともなく、目の下の影に悩むこともなく、溜息で朝を迎えることもなくなるのだろう。

もっとも、この人が寝かせてくれたら、の話だけれど、その大切な事実に気付くのは、少し先のお話。
嗚呼、結局、睡眠不足の悩みからは解放してもらえぬ運命。
口喧嘩じゃ敵いはしないから、思いの丈は日記にぶつけてみましょうか。

公開日:2012.07.16