うちの総督は少し変わっていて。
 剣術の腕は確かだし、人心掌握にも優れているし、カリスマ性に溢れているし、あの攘夷戦争では結果的に敗れたもののその名を国中に轟かせた、今や悪名高いテロリスト、なんだけれど。
 左目と一緒に頭のネジも一本どこかへ忘れてきてしまったようで、その代わりに黒い獣を飼っているらしい。と、まぁ、兎にも角にもツッコミ所は満載で、万事屋のところのメガネくんがいたら声が枯れてしまいそうだ。
 
 「オイ…」
 
 噂をすればなんとやら。我らが鬼兵隊総督、高杉晋助の登場です。相も変わらず狂気ひとつを身に纏い、不機嫌を全身から放っている。こんな気持ちのいい朝なのに。
 
 「おはようございます、総督。よく眠れましたか?」
 「どの口が言う…」
 
 結野アナもびっくりのスマイルでお迎えしたはずなのに、こめかみの青筋は休むことなく不機嫌を物語っているから恐ろしい。
 
 「どうしたんです、総督ったら。悪い夢でも見ました?それともお腹の調子が?お薬お持ちしましょうか?」
 「馬鹿につける薬なら持って来い」
 「まぁ、そんなものを誰に?鬼兵隊に馬鹿なんてどこにもいませんよ?」
 「俺の目の前に立ってる女が唯一のそれだ」
 
 どうやら彼の怒りの矛先はぶれることなく真っ直ぐ私に向けられているようで。逆鱗にふれるような真似しでかしたっけ?記憶を探ってみる。
 さて、昨日は、情報収集にと街へ降り立ち、船へ戻ってからは食事の支度をして、鬼兵隊のみなさんと食堂で夕食、それからまた子さんとお風呂へ入り、部屋へ戻って着替えていたらどっかの誰かが夜這いに来たので手に持っていた帯で軽く首を絞めてそれだけでは事足りぬと察して辞書の角で頭を殴り、うずくまったところで部屋を飛び出して外側から鍵をかけて更につっかえ棒で押さえて、それからまた子さんの部屋へお邪魔して休んだ。ただ、それだけの一日だった。なんにも悪いことはしていない。
 
 「私、何かしてしまいましたか?」
 
 にっこりと笑んでみたけど、青筋をヒートアップさせつつ我らの総督は口を開く。重低音を静かに響かせて。
 
 「上司の首絞めた馬鹿はどこのどいつだ」
 「権力を盾に部下を襲う馬鹿はどなたですか?」
 
 返答はなく、代わりに煙管を吹かしてくれるから今度はこちらの不機嫌ゲージがじわじわと溜まり始める。
 手癖が悪くておまけに我慢を知らないこの人は、昼夜問わずに、場所も選ばず、こっちの都合おかまいなしで手を出してくる。最初なんて本当にひどかった。合意を得るどころか私はこの人に手篭めにされたのだ。辛くて悲しくてここを出てしまおうかとも思ったけれど、結局はこの人を嫌いになれなくて、離れられなくて、なんだかんだで、その手中に収まってしまった。反省したように見えたのも束の間。こちらが気を許した途端に黒い獣どころかただの狼が顔を出して、先述した通りの行いを繰り返している。さすがに堪忍袋の緒が切れて、昨夜の行動に出たわけで、そう、私は何も悪くない。
 
 「いい加減にしてください。私は夜伽役でなければ、総督の欲求の捌け口でもないんです。そういうのをお望みでしたら遊郭へでも行かれたらどうですか?聞きましたよ、攘夷戦争時代に万事屋たちと行かれたんでしょう?誰も咎めやしませんから、どうぞ行ってらしてくださいな」
 
 怒りに任せて言い放ってから我に返る。不機嫌な表情は色を変えて、また別の不機嫌へと向かっているのだから。そう、この人の前では禁止用語のアレを口にしてしまった。
 
 「その話、いつ、誰に聞いた…」
 「い、いや、あの、あのね?総督?たまたま、たまたまですよ?そ、そう!武市さんに頼まれて、江戸へ降り立ったとき、偶然、偶然また会いまして、本当に、偶然…なんです!だから、そんな怖い顔しないでください!ね?ね?」
 「で…?また仕置きされてェ、と」
 
 頭の中で警報音が鳴り響く。この人の前で、万事屋の名だけは出してはならない。万斉さんが言うに、特に私は、らしい。なんだか理不尽な気もするけれど今はそんなことを言ってる場合ではなく、一歩一歩と近付いてくる、この真っ黒なオーラを纏った男をどうにかしなければならないのだから。
 
 「朝から何を揉めているでござるか、御両人」
 「万斉さん!おはようございます!総督ったら寝起きが悪くて困っちゃいますよね、もう!ここはひとつ、万斉さんにお任せするとします!では!」
 
 神の声とも思える万斉さんの登場にどうにかその場をしのぎ、というより無理矢理に押しつけ、なんとか逃げ出した私はその足で武市さんのもとへと駆け付け、事の顛末を打ち明けることに決めた。
 
 「成る程、つまりはただの痴話喧嘩ということですね」
 「違いますよ!万事屋の名を出してしまったのは私に非がありますけど、総督の日頃の行いをどうにかしてください、という話です。そもそも万事屋の件だって、なんであそこまで…」
 「分かっていませんね、さんは利発ですが鈍感な一面もある。晋助さんも不器用な人ですから、あなたがもう少し察すれば、事態は好転するやもしれません」
 「察する、ですか…?」
 
 もしかしたら、と思ってきたことは一つだけある。今までの例を論理的に解いていけば、それしかない。けれど、そんなはずはない。天秤にかければ後者が勝つ。それほど、そんなはずはない、のだから。
 私だけが、総督の前で、万事屋の名を出してはならない。総督があれほど不機嫌を露わにする理由。それは、嫉妬、だとしたら。いやいや、そんなはずはない。そう、そんなはずは、ない。
 ぐるぐると自問自答を繰り返し、明確な答えは得られぬまま時は過ぎ、昨日のアレはやり過ぎだったと反省したところで見上げれば、高々と月が空に浮かんでいる。もう、夜だ。悔しいけれど、とても悔しいけれど、昨夜の件は謝罪するべきだろう、と総督の部屋へ向かう。
 
 「晋助ならば、今夜は戻らぬ」
 「こんばんは、万斉さん。そうですか、総督はお出掛けですか。春雨のところでしょうか?」
 「定かではないが遊郭がどうこうと言っているのを聞いたでござる」
 「え、遊郭、ですか…?わかりました、ありがとうございます。では、おやすみなさい」
 
 馬鹿につける薬があったら全身に塗りたくってしまいたい。自分で言ったくせに、いざそれを目の当たりにすると、こんなにも落ち込んで、本当に、ただの馬鹿だ。部屋へ戻り膝を抱えて顔を埋めれば、ぽろぽろと涙が溢れて我ながら呆れる。
 夜伽だってなんだっていい。私を欲してくれるなら、あの手が選ぶのが、この身であるなら、それでいい。何にも分かっていなかった。今になって思い知らされても、後の祭。明日の朝に腫れた瞼を予想しながらも涙を止める術なんて知らなくて、むしろ勢いは緩むことなく次々に溢れていく。
 
 「オイ、
 
 ノックもしない侵入者はこの船でひとりしかいなくて、加えて、この声の持ち主もひとりだけ。ぺたぺたと足音が近付いてきても顔は上げられなくて、知らない誰かを抱いた腕を思えば、もう、どうしようもない。
 
 「なにをべそかいてやがる」 
 「放っておいてください。それから女性の部屋へ入るときには一声かけるぐらいのデリカシーは携帯してくださいね。では、おやすみなさい」
 
 出て行ってくれと暗に伝えたはずが溜め息と共に腰を下ろす。真っ暗な部屋に月明かりだけが差し込んでいて、それが幸いだ。こんな顔、明るい場所で見られたくない。それ以上に、今は傍にいたくない。
 
 「帰ってください」
 「…断ると言ったら?」
 「私が、出て行きます」
 
 意を決して立ち上がろうとした瞬間、腕に鈍い痛みを感じたかと思えば、尻餅をつくすんでのところで、抱きしめられていた。求めていた体温のはずが、こんなにも居心地が悪い。
 
 「離してください。欲求の処理なら外で済ませてきたのでしょう?」
 「何の話だ」
 「白々しい。遊郭へ、お出でだったんですよね?さぞかしお楽しみのことと存じます。朝まで戻らないと聞いていましたが随分とお早いお戻りで」
 
 よくこうも、心にもない言葉が飛び出して来る。ここへ帰ってきてくれたのだと、また私に手を差し伸べてくれたのだと、それだけで、泣きたいほど嬉しいのに。顔も知らぬ人に嫉妬して、そんな真っ黒い感情に食い潰されてしまいそう。
 
 「誰に吹き込まれたか知らねーが、その勘違いをいい加減改めろや」
 
 またひとつ大きな溜め息。そのあとに、無理矢理に体の向きを変えさせられ、こんな顔を一番見られたくない人と視線を合わさなければならない体勢に持ち込まれ、何がなんだか。
 勘違い?吹き込まれた?声には出さず繰り返してみるけど、そうであればいいと期待しながらも、なかなか払拭できなくて。
 
 「俺ァ、どこぞの馬鹿の相手してやんので手一杯でな。外の女に目ェ向けてる暇なんざあるめェよ」
 
 腰に回された手はそのままに、もう片方の手が涙に濡れた頬を包む。親指が溢れる涙を拭うから、その優しい体温にまた目頭が熱くなる。
 
 「どこにも、行かないで…」
 
 考えるより先に口が開いて、自制するより先にしがみつくように抱きついていた。
 
 「クク…やけに素直じゃねーか。雨でも降らす気か。それとも、誘ってんのか、なァ、

 妖艶に弧を描いた唇が徐々に距離を縮めて、触れた。涙のせいでほんの少し塩辛くて、けれどとびきり甘美なキス。たかがキスひとつでブラックアウト寸前。頭がびりびりと痺れて、思考が巡らないうちにまた、口が開く。
 
 「ねえ、総督。私が万事屋の話をするのを嫌がる理由って、もしかして、」
 「…あァ、テメーと揃いだ。今更気付いても遅ェがな」

 薄気味悪い笑みを浮かべたあとに、飲み込むような、舐め回すような、そんなキス。ゆっくりと視界が広がったかと思えば、睡眠を得るために用意したはずの布団に背を預けている。そして目の前には、私と同じ真っ黒な感情を懐に忍ばせる男。
 
 うちの総督は少し変わっていて。腕は立つし頭も切れるし配下からの人望も厚いけれど、女の趣味はあまりよろしくないようで。
 
 嫉妬という黒い獣を飼った者同士、その感情に溺れてみるのも悪くない、とかなんとかアブノーマルでロマンチックな発想も生まれてくるから恋っていうものは恐ろしい。われらが総督とその右腕である万斉さんに嵌められたなどと知る由もない私は、淡い月明かりに誘われるように、ゆっくりと、この身を預けた。夜は、まだ長い。