古ぼけたイニシアル

思い出は美しいと言うけれど、私にとってのそれは切なく、そして儚い。
私がまだ10代だった頃の記憶だ。
手帳に彼との予定が増えるたび、嬉しくて、埋まったスケジュールを見つめては一人頬を緩ませていた。
それはいわゆる、青春だったのかもしれない。
"彼氏"という響きが甘美で酔いしれていたと言われれば否定はできないし、実際あながち間違いでもないと思う。
けれど確かに、私はただ純粋に彼を好いていた。
愛してる、なんて言える年齢ではなかったし、本当の愛なんて知りもしなかったが、好きだという思いに嘘はなかった。

引越しの準備をしていたら、10年以上昔の手帳が出てきた。
興味本位で開いてみたそれは、初々しく純粋だったあの頃の私。
きっとあれが最初の恋。もしかしたら、最後の恋。
あの恋が終わりを迎えてから、人を愛するという感情が欠落していた。
恋人ができても、どこかで冷めていて、どこかで彼と比べていて、どこかで終わりが来ることを常に考えている。
まったく、最低な人間だ、と自分でも悲しくなるほどに。
懐かしくも物悲しい思い出の手帳には、ところどころに「S.S」の文字。
誰に見られるわけでもないのにわざわざイニシャルで名を残すとは、若かったんだろう。
思わず笑ってしまったけれど、「あの頃は幸せだったね。」と、もう一人の私が悲しげに囁いてる。

パタン、とそれを閉じた。
思い出ごと消し去れればいいのにそうもいかず、若さが詰まった手帳はぽつりと置かれている。
引越しの準備など、手につかなかった。
悲しくて、つらくて、ぽたぽたと流れる涙。
過去の恋がこんなにも胸を締め付ける。
好きだった。青春時代を全て彼に捧げた。片時も離れたくなかった。別れたく、なかった。

、ごめん。もう無理みたいだ。』
言葉を失ったのは、生まれて初めての体験だった。
嫌だ、やめて、行かないで、そんな言葉が体中から溢れているのに、声は出ない。
一滴の涙に彼は首を振る。
涙のせいか、彼の明るい髪色がきらきらと瞳を焼く。
『俺さ、行かなきゃならない。とはもう一緒にいられないんだ。わかってくれるよね?』
分かるはずなんてなかった。
だけど彼の目が、私の声を奪う。
肯定の言葉も、頷くことすらもできていないというのに、もういちど『ごめんね』と呟き去った。

それ以来、彼の姿は一度も見ていない。
いっそ、死んでしまったと思ったほうが楽かもしれない。
だから、彼はこの世から消えたのだ、と半ば無理やりに自分自身を洗脳した。
忘れられない過去をひきずり、今になってもこうして泣けてくる程だ。
これから先もずっと、消化できないこの痛みを抱えて生きていくんだろう。
自嘲気味に笑って、荷造りに戻ろうとすると、インターフォンが鳴る。
引越し業者が来たのだろうか。とはいえ、予定の時間より随分と早い。
首をかしげながらパーカーの裾で涙を拭い、ぱちんと頬を叩き、玄関へ駆け寄る。

「すみません、まだ荷造りが終わってなくて、」

来訪者の確認もせずにあわててドアを開けた。

「よっ。元気してた?」

時が止まる。夢だ、きっと夢を見ている。でなければ幻覚だ。
つらい過去に引きずられすぎるあまり、視界がおかしくなってしまったんだ。
恐ろしいものを見るかのような目で、その姿を見つめる。

「なーに怖い顔しちゃってんの。俺様が戻ってきたんだぜ?もっと嬉しそうな顔しなさいって。」
「佐助…なの?」
「じゃなかったら俺は誰?幽霊か物の怪?」
「うそ。だって、だって、」

止まっていたはずの涙はいつのまにか再び溢れ出していた。
これが現実だと理解し始めるに比例して、決壊したように。

「泣かせてごめん。勝手にいなくなってごめん。理由も告げずにごめん。全部、俺が悪かった。だから、ねぇ、泣かないでよ。」
「そんなの、無理にきまってるでしょ…?」
「あー、うん、それもそうなんだけど、さ。せめて話だけでも聞いて?もうを離したりしないから。」

矛盾した物言いに泣き笑いを見せると彼はほっとしたように笑った。
理由なんか、なんでもいい。
まさかそれが、過去の世界に戻って責務を果たしていた、なんて突拍子もない話だったとしても。

あの頃のように抱きしめてくれる、「好きだよ。」と笑ってくれる、それだけで、よかった。

今日からの手帳にはまた彼のイニシャル。
引越しは何時からだっけ、なんて考える暇もないぐらい、ようやく取り戻した恋にただ打ち震えるほどの喜びを得ていた。

公開日:2016.04.15

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