雨の夜だから

嘘だらけの天気予報に愛想を尽かせて反抗したけど結局ずぶ濡れだ。新調したスーツも、パンプスも、天からの滴を存分に受けて今や持ち主と一体化している。
ツイてないね。
声に出せばなんとなく気が楽になるように思えたけれど、実際はその真逆で、あっけなくもの悲しさを誘うだけだった。

重たい全身を引きずるように帰路に着けば見慣れているはずの街灯も心なしか薄暗い。気持ちの問題だとは自分でも重々承知しているけれど。
ようやくたどり着いたマンションのエントランスに足を踏み入れる頃にはつま先の感覚を失い始めていた。

エレベーターが目的地へと上り始めるのを体で感じながら、夕食はどうしようかとため息をつく。これから作る気にはなれないし、食事を抜けば誰かさんに怒られてしまう。健康オタクは個人の自由だが、私のヘルスケアまで頼んだ記憶はない。しかしこちらがなんと反論しても「が心配やねん」の一点張りだから卑怯だ。そう言われると黙るほかないのを分かっているんだろう。

鞄の奥底に眠る鍵を指先だけで捜し当てて取り出すとその存在をアピールするように、キーホルダーが大きく揺れた。以前、彼の地元へ遊びに行ったとき訪れたテーマパークで買った、おそろいのスヌーピー。この年になってペアだなんて恥ずかしくて最後まで抵抗したけど、「そない照れんでも。ええやん見せつけたろ」と清々しいくらいの爽やかな笑みを携えてレジへと消えてしまった。無駄嫌いな彼は装飾品を滅多に身に付けないが、これだけは特別らしい。「謙也にでも自慢するか」と自身の鍵に付けたスヌーピーを指先で転がしていた。
翌日、紹介がてらにと噂の謙也くんに会う機会があったが、発した言葉どおりにスヌーピーをこれみよがしに見せびらかしたのだ。彼が席を外した短い時間に謙也くんは「苦労してはるやろうけど、懲りずに付き合ったってな」と呆れ顔でフォローをするので、思わず笑ってしまったのをよく覚えている。

そんな思い出に自然と笑みがこぼれる。頭からは今でもぽたぽたと滴が落ちてくるけど、正反対に私は笑っている。
しかし思ってしまえば会いたくて、笑みは次第にためいきへと変わる。途端に重たくなった鍵を差し込むと、今さら体の冷えに気づいて震えた。こみ上げる涙に耐えながらドアノブを握り、雑念を振り払うように思い切りドアを引く。

「おかえり。おじゃましてるで」

中から漏れたのは照明の光だけではなかった。そこにいるはずのない人の、まるでそうしているのが当然のような声が確かに聞こえた。

「蔵ノ介、いるの?」
「おったら、まずかったか?って、なんやずぶ濡れやん。アカン、風邪ひく」

からかうような眼差しが一瞬にして色を変えて、まるで母親のような手際でタオルを手に取る。柔らかな温もりがつむじから広がり、先程までぽたぽたと落ち続けていた滴はあっと言う間に見えなくなった。

「今日は雨の予報やろ?傘忘れたんか?」
「どうせ外れると思って、持たなかったの」
「あまのじゃくなことしたから、お天道様に怒られたんやろな。寒ないか?」
「ちょっとだけ」
「そうか。ほんなら風呂入って、しっかり温まってきたらええ」

さあさあ、とバスルームへと誘導されて一人になると、これが現実なのか夢なのか途端に判別ができなくなった。鍵を開けてから今までが全て想像の世界だったかもしれない、と。不安を取り除きたくて頭にかぶせられたバスタオルに手を伸ばす。そこには確かに誰かの温もりが残っていて、ゆっくりとそれを顔に押し当てた。



お風呂から上がりリビングへ入ると、お気に入りのマグカップに湯気が揺れていた。

「コーヒーと迷ったけど寝る前やから、ホットミルクにしといたで。ちょうど飲み頃や」
「ありがとう」
「こっち座りや。髪乾かしたる」

ぐいと腕を引っ張られて半ば倒れ込むようにソファーへと腰を下ろす。マグカップを両手で包み一息つく頃には、鈍い音と熱風が始まっていた。指先で器用に髪をとかしながらもう片方の手で風を送る。ゆるゆると流れ込むその熱に瞼は重みを増していく。

「終わったで」

カチ、という音と共に、ぽんと頭に触れた体温。髪はすっかり乾いているから、その間眠ってしまっていたんだろう。

「ごめん、寝ちゃってた」
「うとうとしてる顔、かわいかったで」

わざとらしく耳元で囁かれた声はやけに熱っぽい。今日は疲れているから早めに休みたいところだけれど、生憎私はこの声に弱い。するりと背後から伸びてきた両手を許してしまえば承諾したも同然で、発車の合図を待ちわびていたかのような吐息が首筋をなぞる。
しかし、このまま負けを認めるのは悔しくて最後の抵抗とばかりにピンと背筋を伸ばして咳払いをした。

「休む暇はもらえないのかしら」

いたずらっぽくそう呟けば、ぴくりと一瞬手が止まる。今の一言で萎えてしまったのかもしれない。軍配はどちらに上がったか確かめるために顔をのぞき込むと、その唇は微かにカーブを描いていた。

「1ヶ月半も会うてへんねんで?どういう意味か、分かるか?」

マズい。身を離そうと試みたが時すでに遅し。作戦は失敗どころかむしろ煽ってしまったらしい。少し広めのソファーにゆっくりと身体は落とされ、その上に覆い被さるように彼の重みが降りてくる。完全に身動きがとれない。

も俺に会いたかったやろ?お互い様や」

頷きながら目を閉じればそれは降伏の証拠。
1時間ほど前に感じていた巨大な寂しさはすっかり隠れてしまったけれど、代わりにほんの少しの焦燥と、目一杯の喜びに満たされている。
会えない時間に育てられた確かな愛は、この骨をも焦がしてしまうくらいに燃え上がっている。そう確信を持てるほど、あちこちに触れる唇には熱が込められていた。

外では相変わらず雨が降り続いていて、その音を意識の隅で聞いている。今ならどれだけ雨に打たれても足りないくらいに全身が火照って、とても同じ体とは思えない。そんなことをぼんやりと考えながら、次のキスを受け入れる準備を始めた。

どうせこうなると分かっていたなら、コーヒーでよかったかもしれない。とびきり苦くて、とびきり甘い、目眩を起こすくらいのカフェインを添えて。

公開日:2011.10.10