愛してくれていいよ

ようやく仕上げた企画書から目を離し腕時計に視線を落とせば、日付が変わるまでもう10分もないような時刻だった。残念ながら、ハッピーバースデーと祝ってくれる相手もいなければ、0時ちょうどにメールを寄越して来るような気の利いた友人も見当たらない。これは予想ではなく確信だ。数分後におれの予感はピタリと的中するだろう。

せめて、少し高めのワインでも買って自宅でゆっくりとできればいいものを、このご時世に「誕生日だから休みをくれ」だなんて言えるわけもなく。むしろこんな時間にひとりで、上司に渡された雑なラフを形にしている有様だ。

かけていたメガネを外し、ふと視線を下ろせばまたひとつ進んだ秒針。さすがに自分のデスクで誕生日を迎えるのはあまりにも癪だ。せめてタバコで気を紛らわせたい。そうして喫煙室のドアを開ければ、相変わらず不健康な匂いが充満している。今のおれには、これがお似合いかもしれない。苦笑いと共に吐き出した溜め息はいつもと変わらず灰色で、ゆらりと漂ってはやがて見えなくなった。

2本目のタバコに火を点けようとしたところだった。
ポケットの携帯が微かに揺れ、「勘違いなら悲しすぎるな」と呟きながら開けば、薄暗い部屋にぼんやりと浮かぶディスプレイの光と、中央には「新着メッセージ : 1件」の1行。先ほどの確信が外れたことへの落胆などは微塵も見えず、目の前の現実に恥ずかしながらテンションが上がる。そしてそれを、差出人の名前がさらに後押しをした。逸る気持ちを抑えられるわけもなく、親指に力が入る。


Date 3/2 0:00
From さん
Sub  おめでとう
残業中(?)のサンジくん。
ハッピーバースデー!
「タバコが恋人」は、そろそろ
卒業しましょう!(笑)

P.S
何か欲しいものある?
 

彼女らしい、絵文字ひとつないメール。だけど10個のハートより、さんからの「おめでとう」の一言は、比べるまでもないほどに、ひとりきりの誕生日に花を咲かせてくれた。
さっきまでの煙たい空気も心なしか澄んで見える。込み上げる喜びに誘われるようにタバコへと手を伸ばしたが、冗談のように添えられた一文に珍しくも後ろめたさを覚えて、ポケットの糸クズを指先で弄ぶだけに留まった。

返信ボタンを押したものの、一文字目が浮かばない。「ありがとう」なんてつまらねェし、遊び心を盾にしたとしても「プレゼントは貴女がいい」なんて送れる勇気もない。結局、いずれのキーも選ばれることはなく、おれは諦めるように喫煙所の電気を消した。暗闇で光る真っ白なディスプレイ。ぐしゃぐしゃと頭を掻いてみても正解は降りてきてはくれなかった。

本人に会っちまえば全て解決する話だが、そう何度も奇跡は起こらない。スモークガラスのドアを蹴るように開けて、ぽつんと残された自身のデスクへと向かった。気分転換になるかどうかは別にして、一旦間を置こうと再びメガネをかけながら企画書を手に取れば、買った覚えのない缶コーヒーが身を潜めている。
頭にいくつも疑問符を浮かべながらとりあえずは手にとってみると、温かい。つい先ほど買ったばかりのそれだ。その正体を推理するのは、今のおれには酷だ。なんせ、例の返信にすっかり思考は全て持っていかれている。誰だか知らねェが、ここは追求せずにありがたくいただこう。と、プルタブに指をかけたところ違和感を覚えて手が止まる。

「シール、か?」

円を描くようにぐるりと、ご丁寧に1ミリの隙間もなくハート型の小さなシールが貼られている。なんの嫌がらせだ。そのまま無視して飲む気にはなれず、元の場所へと戻した。

「あれ?飲んでくれないのかな?」

先ほど蹴り飛ばしたドアの方から、聞き慣れた、だけど普段よりもいくらか柔和な声が響き、嘘だと自身に言い聞かせながらも期待に湧き上がる感情を抑えきれず、いささか興奮を覚えながらゆっくりと振り返った。

さん?」
「他の誰と間違えたの?傷つくなぁ」

困ったように、だけど少し可笑しそうにクスクスと笑う声に、目を奪われた、なんてモンじゃねぇ。もっと、大きな、心ごと全身持っていかれたような気分だ。しばらく呆然としていたおれを不審に思ったのか、微笑みは徐々に落ち着きを見せる。

「えっと、おじゃまだったかな?お疲れのところだもんね、ごめん」

否定する隙も与えず、こちらに歩み寄ったかと思えば、「部長に見せる前に企画書の確認しておきたくて」と、業務中の彼女が急に姿を現す。おかげで、あのメールは?コーヒーは?おれの誕生日は?いくつも浮かぶ質問は当分させてもらえそうにない。すっかり居場所をなくしたおれは、塞がった自身のデスクを見つめながら、その隣の空いた椅子に腰掛ける。
きれいな横顔だ。この時間だけでも、おれにとっては申し分ない誕生日プレゼントかもしれない。しかし欲を言えば彼女の口から聞きたい。おめでとう、とたった一言でいい。せっかくこの場にいるのだ。長い睫毛がたびたび瞬きをするのを見つめながら、届きそうで届かない願いを飲み込んだ。

「うん、悪くないね。私としては合格点かな」
「お褒めに預かり光栄です」
「おめでとう」
「はい?」
「もう。誕生日でしょ。メールだけじゃかわいそうかなと思ってコーヒー買ってきてあげたのに」
「あの、ハートも?」
「イヤだった?」

暗がりの部屋に映るさんの子どものような瞳がほんの少し近付く。それは次第に大きくなったかと思えば、頬に柔らかな感触を残して離れていった。

「お誕生日のプレゼント。それとも、もっと深いのがお好み?なんてね」

からかうようにひらひらと振られた手を握る。驚いた彼女の動きは止まり、「どうしたの、」と呟いた声は先ほどまでの威勢をなくしてしまっていた。どうしたもこうしたもねェ。

「誘ったのはそっちですよ?」

こちらを見つめる彼女の瞳が水分を帯びているように見えるのは、その頬が赤く染まり始めているのは、決して気のせいじゃない。メガネをはずしてネクタイを緩めれば、そこからは戦闘モード。企画書よりもこちらのほうがはるかに得意だ。

「プレゼントは私ということね」
「ご名答」

悔しそうに逸らした視線がまたおれを誘う。誰もいない深夜のオフィス。暗がりでふたりきり。こんなシチュエーション、そうそう出逢えるもんじゃねェ。「タバコの代わりは務めていただけますか?」わざとらしく吐息を混じらせて囁けば、「しょうがないな、サンジくんは」と艶やかな唇が漏らした声。それはまるで、最初から見透かしていながら敢えて引き寄せたかのような、もしくは、罠を仕掛けて待ち伏せていたかのような、響きで。
やがて挑戦的に変色した瞳に捕らえられる頃には、パソコンもスタンバイになっていた。

彼女が言いたかったのは、つまりはこういうことだとおれは勝手に推測する。

公開日:2011.03.11
サンジお誕生日企画に提出したお話です。
title by 遠吠え