カッターシャツの呼吸

それは、赤也の何気ない一言から始まった。

「真田副部長の筋肉すごいんスよ!何したらあれだけ鍛えられるのかわかんねーっス」

最近あった面白いこと、についてネタを投げかけ合っていると、そんな話を持ち出したのだ。彼の名誉のために一応言っておくと、赤也は真田の筋肉について面白いと発言したではない。むしろ、その口調とは裏腹に、尊敬や憧れといった感情が窺えたことは付け加えておく。

「柳生先輩もホレボレするーとか言ってたんスよ!あ、変な意味じゃなくて」

私は少しも勘違いなんてしていないのに、自分の言い方が気になったのか、慌てて言葉を加えた。
そしてごまかすように別の話題へと運ぶ様はお世辞にも器用とは言えないけれど、そこにツッコミを入れるほど嫌味な先輩にはなりたくないので、とりあえず「うん、」と頷くことにした。

赤也の話をそれなりに熱心に聞いていたつもりだけど、さっきの件がどうにもチラついて集中できないのは確かだ。
真田が自分にも他人にも必要以上に厳しいことは周知の事実で、今更それについてアレコレ言うつもりはない。そのストイックさが彼の実力の基礎となっていることも明らかだ。

同じクラスになったブン太に誘われてからマネージャーを務めて3年目。テニスに打ち込む彼らの姿を、他の女子とは比べ物にならないほど間近で見てきたつもりだ。けれど言うまでもなく更衣室は男女別で、水泳の授業もそれぞれ分かれているため、赤也の言う「真田副部長の筋肉」を私はよく知らない。



その日も、男性陣が着替え始める前の部室で、柳に頼まれた資料を整理していた。部活が始まってしまうと私も外へ出なければならないし、終わった直後にここへ入る勇気はない。大声では言えないけれど、運動後の男性が集まる部屋は間違えても「いい香り」とは言えないからだ。


、来ていたのか。早いな」

しばらく人の出入りはないだろうと踏んでいたのに、その予想はあっけなく外れてしまう。それも、今の今まで意識のど真ん中に座り込んでいた張本人がやって来たわけだから、必要以上に動揺してしまったのも無理はないと思う。

「さ、真田こそ、早いね。練習開始まで、まだ時間あるよ」
「俺がいては気が散るか?」
「まさか、そんなこと、ないよ。どうぞどうぞ」

何度も舌を噛んでしまってヒリリと痛む。アハハと笑ってみせたけど逆効果だった。隠し事をしている、とでも捉えたのか、詰め寄るようにこちらを睨んでくる。「そんな顔しないでよ」と宥めようとしてみても、返って逆なでしてしまったようだ。

「あ、そうそう!赤也がね、真田のこと褒めてたよ!すごく鍛えてるんだってね」
「・・・む、赤也が、そうか」

なんとか彼を遠ざけようと、話の種に今朝聞いたばかりの話題を持ち出す。本人のいないところで赤也が彼を良く言うことは多くないため、それを聞いた真田の表情は心なしか柔らかくなる。よく注意していないと気付かないほどの変化だけれど、どうにか機嫌を直してくれたようだった。

「柳生も感心してたんだってね。私も見てみたいなー、なんちゃって」
「いいだろう」
「へ?」

彼の怒りを落ち着かせられたと胸を撫で下ろしたのも束の間、回避したはずの危機は、また違った形で目の前に現れた。これも微々たる変化だけれど満足気に微笑みながら、シャツのボタンを外し始めたからだ。ここは部室で、真田と私の2人きりなわけで、今起きている出来事を頭の中で順に整理すると、ようやく事の重大さ、そして異変に気付く。

「ちょっと待って!」
「どうした。お前が望んだのだろう」

1番下のボタンを外して脱ぎかける瞬間にその手を押さえた。力では敵うまいと分かっていても、全身の体重を両手に込める。この状況をおかしいと思っていない真田の頭の中を覗いてみたいけど、今はそれどころではない。こんなシーンを誰かに見られたら、いろいろと終わってしまう気がする。

「手を離さんか。一体どうした、何事だ?」
「とりあえず服を着ようよ!ね!」
「何をそんなに慌てている?見たい、と言ったのはではないか」
「うん言った。確かに言ったけど、」

迫り来る真田にどうにか抵抗しながら喋るものだから呂律が回らない。打開策を練ってみるもパニックに追い込まれるだけで、何一つとして浮かんでこない。その上、体勢はあっという間に反転していて、私の手首が真田にしっかりと握られている始末だ。何より彼は今、シャツのボタンが全開なわけで、それが至近距離にある女子の気持ちにもなってほしい。

「なんじゃ、ケンカか?っと、お前さんたち明るいうちから大胆やの」

ドアノブの回る音が聞こえて「マズイ」と思いはしたけど力の差は圧倒的で、先程から状態に変化はない。

「違うの!これは、あの、誤解なの!」
「待て、俺との話が先だろう!、お前は一体どういうつもりなんだ?」
「え、それはひとまず置いとこうよ」
「邪魔したみたいやの。ま、仲良くやりんしゃい」

ニヤリ、と口の端を上げてわざとらしく微笑み、そして行ってしまった。ドアを閉める直前でポケットから携帯を取り出すのが見えたから、きっとブン太か赤也にでも連絡するんだろう。最低だ。よりによって、最も危険な男に見られるなんて。せめて柳生か、あるいは柳であれば状況は違っていたはずなのに。

「おい、聞いているのか?」
「あ、ごめん、その、とりあえず手を離してほしいな。ちょっと痛い」
「す、すまん」

ようやく解放されたものの、手首にはうっすらと痕が残っている。おまけに心臓がドンドンとまるでパレードのようにうるさくて、この狭い部室に響いてしまいそう。赤らむ頬を両手で包みながらそっと隣を盗み見れば、ボタンを開け放したまま腕組みをして何やらうんうん唸っている。

シャツから伸びた腕、胸元、ああ確かに赤也の言うとおりだ。15歳のそれとは思えないほど逞しく鍛え上げられた質のいい筋肉。男の人、なんだなあ。意識してしまえば、自分でも驚くほど、絡まっていた糸がするすると見事に解けていく。
赤也の何気ない一言をあんなにも気にしてしまったワケ、真田のとった行動に大混乱してしまったワケ、そして何より冷めやらぬ頬の熱と胸の音。

「私、真田のこと好きみたい」

さっきまでの喉の渇きがまるで嘘のように、あっさりと出てきた単純な言葉。なんだ、こんなに簡単なことだったのか。悩んでいた今日の時間が馬鹿らしい、と思えるくらいに晴れ晴れとしている。
そして、伝えられたことに満足をして、また机の資料へと意識を戻したかけた。

「お前のおかげで俺もはっきりした。どうやら同じ気持ちのようだ」

1,2秒と間を空けずに斜め後ろから聞こえた声は、さっきの私以上に澄んでいて、誠意と自信に満ち溢れている。期待なんかしていなかったはずなのに、「ああ、そうか」と全て受け入れられてしまう。もしかすると、お互い、もうずっと前から分かっていたのかもしれない。

「それから真田、」
「なんだ?」
「前を留めてくれると助かります・・・」

頬を赤くしながら「すまない」とボタンに手をかけるその姿を見て、よかった彼も正常なんだ、と安堵をする自分がいる。他人より少し不器用なだけ、おかしなところなんて1つもなかった。



それから10数分後、冷やかしを携えて現れたレギュラー陣数名に、変わったばかりの2人の関係を明かす。全員のニヤつきがぴたりと止まって、一斉に声を失くしたことは言うまでもない。

公開日:2011.09.11