それは、前触れもなく唐突に

カーテンを揺らす風に目を閉じながら、押し寄せてくる湿気には舌打ちをしてやった。
斜め後ろの忍足がニヤつきながらマンガを読んでいる。
繰り返し同じ姿を眺めても、当の本人は全く気付く様子が無い。
諦めて視線を黒板に戻すけど、瞼に移る残像が憎らしい。
少しうとうとし始めた頃、タイムリーに鐘が鳴った。
跳ぶようにやって来た岳人の声と、耳慣れた独特の関西弁が響き渡る。
さりげなく目を向けると不幸にもしっかりと視線が合ってしまう。

「岳人がうるさいから、さん怒ってるやん」
「え!俺かよ」
「違う違う。楽しそうでいいな、と思っただけだから」
「そうでもないけどな」

にっこり。私にとっては最上級に眩しい笑顔。
瞳の奥に潜む感情は見えないけれど。
呆れた振りして肩をすくめたところで、それ以上得るものは無い。
単なる愛想笑いでも、私の中にあるボタンを押してしまったことに変わりはない。
一日中、浮かんでは消える、同じ瞬間。
次々とクラスメイトが減っていく中で、私だけは椅子から離れられない。
はあ、と大きく溜息をつけば、真っ赤な空さえも悲しい表情を浮かべている。
憎まれ口ばかり叩く私はかわいくない。
目が合ってもすぐに逸らしてしまう。
思い通りにいかない毎日を恨みながらも、ひたすらに同じ人を想い続ける。
きっと今頃、練習に励んでいるんだろう。
一度だけ見たことのある姿をぼんやりと思い浮かべながら一人勝手に頬を染めていた。
空は相変わらず赤くて、今朝見た鏡のように少し曇っている。
どこか似ている二つの赤は悲しげに、ただ、夜を待っているみたい。

顔を机に預れば、ひんやりと冷たい。
けれど熱が冷めることはなく、リバースする映像に腹を立てるばかり。
あんなふうに笑うから、私は帰ることも出来ずにいる。
悔しくて情けなくて、自分の恋路を思えば更に悲しくて、泣きたいのに涙は出ない。
このまま眠りに落ちてしまえばきっと楽になれるんだろうけど、生憎それも出来ない。
少し遠くから聞こえる靴音に苛立ちを覚えながら、ゆっくりと起き上がる。
感傷に浸る夕暮れを邪魔されたと、理不尽な理由で廊下を睨み続けた。
まさか、ガラリとドアを開ける人がいるとは思うはずもなく。
ましてや、その人が、自分を憂鬱にさせている犯人だとは考えるはずもなく。

「あ、やっぱりおった」
「・・・なにしてんの。忘れ物?」
「みたいなもんやな」

ふうん、と興味ないような返事をするけど声が上ずっている。
どうかそのことに、忍足が気付きませんように。
よいしょ、とわざわざ掛け声をつけて隣に座った忍足が不自然に咳をする。

「忘れ物は?」

聞きたいのはそんなことじゃない。
探せば言葉はもっと他にある。
だけど、どうやっても理想の自分になれないのが現実。

さんは、いうんやな?」
「そうだけど、なに?」

突然呼ばれた名前に動揺を隠すことが出来ず、視線を逸らした。
平常心を保とうとする右脳とは反対に、心臓はやたらうるさい。
静まれ静まれ、何度自分に呼びかけても言うことを聞いてはくれない。
そんな心情を知ってか知らずか、忍足はなおも名前を口にする。

ちゃん、て呼んだらあかんかな?」
「ばっかじゃないの」
「あかんかぁ」

夕焼けがきれいでよかった。
見事に染まったこの頬を、上手に包んでくれるから。
教室が薄暗くてよかった。
泳ぎっぱなしのこの目も、暗闇が隠してくれるから。
もうひとつ注文をつけるなら、この静けさをどうにかしてほしい。
うるさすぎる心臓の音が教室上に響いてしまいそうで怖いから。

「あのー、俺、さんに嫌われとるんやろか?」

今度は憎まれ口すらもすぐには出てこない。
完全に頭がおかしくなりそうだ。
赤すぎる頬と速すぎる鼓動がそれを十分に物語っている。
無視する、振りをすることしか出来ないほどに。

「ショックやわ、俺」

期待、してもいいんだろうか。
むしろ、期待しない方がふつうじゃない、今の状況。
落ち着かないまま目を向けると、少し寂しそうな忍足がいた。
そんな顔されたら、嫌でも期待してしまう。
嘘なら早く、冗談だと言ってよ。

「授業中いっつも熱い視線感じるから、てっきり好かれてるもんやと思ってたんやけど」
「気付いてたの?!」
「あ、ほんまにそうなんや」

悪びれる様子もなく、にこっと笑ってみせる忍足。
怒りを通り越して恥ずかしいという感情が一気にこみ上げてきた。
一度曝け出してしまった感情を隠すことは容易くない。
それが出来るほど器用ではなく、思い切って打ち明けてしまえるほどには素直でもなかった。

「教えてや。熱い視線の理由を」

全く表情を変えないまま、同じトーンで最低の質問を投げかける。
ああ、そうか。何もかも知っての上で、こいつはここにいるんだ。
気付かなかった自分と、駆け引き上手な忍足に腹が立つ。
ここまで来たら、もう引き下がれない。
誰が口を開くものか。
この国では黙秘権が認められているんだから。

「残念やわ。ちゃんの口から聞けへんようなら、代わりに」

すっと腰を上げ、ギリギリのところまで顔を近づけた。
心臓が、今にも破裂してしまいそう。
完全に制御不能となった体は、動くことを許してはくれない。
耳に触れる忍足の息が、呼吸を、鼓動を、更に早める。

「俺な、ちゃんのこと、好きやねん」

精神崩壊まで、あと数センチ。
壊れる寸前で、ゆっくりと顔を離していった。
電気はついていないはずなのに、忍足の顔だけがはっきりと見える。
見たくもないのに見えてしまう。
隠したいのに出てきてしまう、感情。
声なき告白を見事に受け止めた忍足は満足げに微笑んだ。
躊躇いもなく私の手をとる。
まるで、それが当たり前であるかのように。

「ほな、帰ろか」

繋がれた手、熱を帯びた頬、火傷しそうに熱いのは、きっと私だけじゃない。
この温もりに慣れる頃、もう少し私は素直になっているんだろうか。
ほんの少しだけでも、かわいらしさを持ち合わせているんだろうか。
先のことなんて、てんで見えそうにもないけど、とりあえずこの手を握り返してみる。
それから思い切って、忍足の名前を呼んでみようとも思う。

公開日:2009.01.03

title by 自主的課題