むかえに行くから泣かないで

きっと今日は人生で最悪の日だ。星占いは二度と信じない。

何度もそう呟きながら、アスファルトの上を滑るように歩いていた。


普段は生徒の参加率に興味も示さない教授なのに、私が遅刻した日に限って出席をとってるし。バイトに行けばダイナミックに注文を取り違えて客からはダラダラと文句を言われ、長い、と評判の店長のお説教も免れなかったし。心身ともにボロボロの中、財布を忘れて学校に逆戻りしなきゃならないし。
イライラがピークに達したのを狙ったように電話がかかってくるし。

そしてそのままケンカ勃発。私の一方的な態度の悪さに呆れたのか溜め息をついた彼に、またも苛立ちが増して電話を切った。
剥がれかけたマニキュアが爪の先で笑って見える。


結局、ようやく財布を手にしたものの終電を逃して、タクシーを捕まえようにも給料日前。そんな余裕はありもしない。嘲笑うようにすり抜けていく車を横目に重たい溜息をつく。
少し強く風が吹いて、今さら髪型を気にすると、そんな私を咎めるように、ポケットの携帯が震えた。ディスプレイに映った「仁王 雅治」の文字がチカチカと眩しい。

「・・・はい」
『俺』
「わかってる」

いつもの私なら、「まるで熟年夫婦みたいな意思疎通だね」なんて、呑気に惚気て見せるけど、間違えても今は、夫婦だなんて言える精神状態ではない。
言葉を選びながら相手の出方を待ってみる。ケンカして電話を切ったまま、後味が悪いのはお互い様。どちらかと言えば、かなり相手側に分があるけれど。

『まだ機嫌直らんのか?』

本音はもちろんYESでも、そうとは言えない彼特有の圧迫感。言葉で勝てないのは目に見えている、と迷った挙句に黙り込む始末。
ただでさえ泣きたい気分の状況に追い打ちをかけるように、足がむくんで靴ずれが痛い。歩きつかれて、怒り疲れて、ついにはその場にしゃがみこんでしまった。

『生きとるか、
「死ぬわけないじゃん」
『それだけ言い返せれば心配無用じゃき』

電話口から聞こえた、いつもの笑い声に胸が締め付けられる。それでもまだ反発したい意識を他所に、涙が勝手に溢れてくる。何が悲しいのかも整理できていないというのに。

『泣くな』

「泣いてない」と言い返したいのに唇が震えてうまく話せない。その上、鼻をすする音で嘘が突き通せるわけもない。だけど肯定する素直さは隠れてしまっているおかげで、相変わらずの沈黙を選択した。

『今からそっち行く。場所を教えんしゃい』
「来なくて、いい」

本音を無視して飛び出た言葉を洗い流すような涙が次々と零れ落ちて、携帯を握り締める手の温度と同じくらい熱い。
容赦なく流れる涙をどうにか抑えようと抵抗してみるも、圧倒的な勢力により覆される。諦めたように泣いて、泣き続けて、気付けば携帯は膝の上でぼんやりと月を仰いでいる。それを握っていたはずの手は、顔を覆っていた。

通話中 35分27秒

慌てて持ち直してみても、相手の声はおろか、息遣いすら聞こえない。

「もしもし?」

返ってくる言葉はない。耐え切れず、何度も何度も呼びかけてみる。涙のせいで声は嗄れ始めていた。

「雅治?」

「なんじゃ」と答える、いつもの声は聞こえない。少し低めの、私を落ち着かせるあの声が。
そして私は、孤独に胸を押し潰された真っ暗な夜に取り残されてしまった。行き交う車のエンジン音だけが響いてさらに切ない。

「呼んだか?」

夢でも見ているのかもしれない。幻想だろうと思えるくらい、ぼんやりと映る人影。まるで月明かりのように、その人は現れた。

「相変わらずお前さんは意地っ張りじゃの。よしよし、もう泣くな」

私は犬じゃないって、いつもは言ってみせるのに。その声が、その手が今は嬉しすぎて、すっぽりと包み込まれる頃には、車のエンジン音もBGMと化していた。

「俺がおるき、もう大丈夫じゃ」
「いなかったくせに、よく言うよ」
「あー、すまんすまん。ま、けど、俺に会えたから満足じゃろ?」
「自信満々だね。来て、なんて一言も言ってないのに」
「そうか?の泣き声が、『雅治来てー』って俺を呼んでたんだがな・・・勘違いか?」
「・・・知らない」
「拗ねなさんな。キスしちゃるき、こっち向きんしゃい」

言われるがまま顔を上げて目を閉じようとした瞬間に、テールランプが2人を照らす。まるで映画のワンシーンみたいだ、と酔いしれていると、すかさず見透かした雅治が「俺のこと以外考えなさんな」と耳元で囁く。

少し長めのキスのあと、手を繋いで歩く帰り道。大きな影と、ちょっと小さな影が繋がった夜の真ん中。靴を脱ぎ捨てるわけにはいかないけど、不思議と痛みも気にならない。
「ねえ、」と呼びかければ、「なんじゃ?」と答える声がある。それだけで、今日1日分のアンラッキーが全部吹き飛ぶ気がした。だけど素直にありがとうとは言えなくて、そっと小指を絡ませてみる。不思議そうに目を大きくするから、「なんでもないの」と微笑みで返した。

更けていく夜、少し長い帰り道。

公開日:2011.09.04

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