何の脈絡もなく突然投げかけられた不可解な問いに即答できず、ぽかんとその人を見つめた。特別、恋愛話を今更していたわけでもなく、男女の在り方について討論していたわけでもない。むしろ、会話らしい会話さえしていなかったはずだ。
「ねえって。僕が聞いてるんだから答えなよ」
彼には似つかわしくない質問を急かすように再び投げる。若干苛立っているようにも見えるくらいだ。
「浮気、なら、いいんじゃないかな」
「どういう意味」
「本気じゃなければ。だって個人の自由でしょ」
目は合わせられなかった。彼の口から浮気という単語を聞く日が来るとは思ってもいなかったし、ましてや今の私にその問いは酷というものだ。彼は何も知らないのだろうか。それとも、わざと?
「じゃあ君は、僕が他の子と何をしても気にならない、そういうこと?」
「うーん、気にならないわけではないけど、仕方ないかなって」
「理解できないな」
最後まで言い終わらないうちに、被せるように私の言葉を断ち切った。「理解できない」と今度は独り言のように呟いて、再び資料に目を向ける。
理解してもらおうだなんて、これっぽっちも思っていない。理解してもらえるはずなんてないのだ。けれど一度踏み込んでしまった甘美な闇には出口がなくて、抜け出せない。
雲雀に対する愛情が薄れているわけではないし、彼のことを大切に思う。その気持ちに偽りはない。口には出さないけれど彼は私を十分すぎる程に愛してくれている。それは誰よりも自分が一番わかっている。でも、どれだけ美味しいと感じていた食事でも毎日続けば飽きてしまい、他の食材に目移りが始まる。それと少し似ている。
「電話、鳴ってるよ」
少しだけ顔を上げて、不機嫌そうに私の鞄を指差した。恐ろしいほどに耳がよく、ついでに勘も鋭い。そんな彼が、気付いていない、わけがない。じわりと湿り始めた手の平を隠すように携帯のディスプレイを開くと、無機質に光るその画面には予想通りの名前が表示されていた。通話ボタンは押さずに再び閉じ込めれば、「出ないの?」と咎めるような声が後ろで小さく響いた。
「知らない番号。いたずら電話かな?最近多くてさ」
「ふうん」
沈黙など、慣れているはずなのに、どうしてこうも息苦しくなるのだろうか。その答えは私が一番よく知っていて、だけど解決策を見つけることはできていない。
しばらく続いた沈黙を先に破ったのは、雲雀の方だった。
「浮気と本気は何が違うの?」
睨むように、瞳の中に侵入するように、じっとこちらを見つめる。そんな目で見られて上手に回答できるわけもなく、声にならなかった言葉は息となり、ただ漏れていくだけだった。彼が満足する正解は何だろう。それを見つけて、早くこの状況を打開したい。けれど頭の回転は鈍くなる一方で、答えるどころか考えることすらままならない。
「君自身が理解できていないんじゃないか」
図星だった。どこまでが浮気で、どこからが本気で、それの境界線を明確にすることなどできない。口を閉ざした私に呆れたのか溜め息をつき、睫毛を伏せた。
「浮気だと思っていたらいつの間にか本気なんて、やめてね」
寂しそうな目。心なしか唇が震えている。そんな彼を見るのは、初めてだった。今まで、何を目の前にしても動じずに、ほんの小さな障害であっても顔色一つ変えずに排除してきた彼が、どうして、何も言わずに、気付かない振りをして、こんな遠まわしの方法を選んだのか。
「悪いけど、僕は先に帰るから」
それ以上は言及せず、最後に「戸締りよろしくね」と一度だけ振り返り、応接室を後にする。この部屋にひとり残されることも、初めての経験だった。しんと静まり返ったひとりきりの夕暮れには、罪悪感ばかりが渦巻いていた。
の異変にはとっくの昔に気付いていた。だけど問い質してしまえば離れていってしまうような気がして、彼女がいない世界など考えたくもなくて、惨めだと思いながらも沈黙を続けてきた。
最初は、好奇心旺盛な彼女のことだから、ちょっとしたスリルを味わいたいのかもしれない、それならば自由にさせてあげよう、と自分なりの優しさのつもりだった。いつかは僕の元へ戻ってくるだろう、などと自信過剰だったのだ。
体が重たい。思うように動かない。赤々と揺らめく夕日にさえも苛立つほどに。最近ろくに眠っていないせいか、体がいうことをきかないのだ。愛用の枕はいつの間にか無くしてしまっていて、寝苦しい夜が訪れるばかりだ。特別暑いわけでも寒いわけでもないというのに。
並中の門を抜けると、最も見たくない影が目に入った。僕を悩ます唯一の正体が、相変わらず不快な笑みを浮かべている。
「これはこれは雲雀くん。おひとりですか?」
「ふたりに見えるかい?」
「クフフ・・・失礼しました。いつもの彼女が一緒ではないようなので、つい」
反射的にトンファーを振るった。けれどそれは空気を切るばかりで、目標にかすることすらできない。随分と長い間、食事はおろか、睡眠も、休息もとれていないのだ。体力は限界だった。そんな僕を見ては愉快そうにまたあの笑みを浮かべる。
「だらしがないですね。雲雀恭弥ともいう男が」
「誰のせいだ」
「おやおや、自分の不甲斐無さを他人に擦り付けるのですか。困った人だ」
「から離れろ」
「クフフ、それは彼女に言ったらどうです?六道骸に近付くな、と。それだけで事足りるはずですよ」
そんなこと、できるものならとっくにそうしている。だけど、それをしなかったのは僕の弱さであり、甘さだ。彼女を失うのが怖い。その思いから、口を閉ざしてきたはずなのに、今はそれによって彼女を失いかけている。こんな僕を見たら、彼女は何と言うだろうか。「ほんとバカなんだから」と呆れて笑ってくれるのだろうか。それとも、「雲雀らしくないよ」と諭すように僕を導いてくれるのだろうか。それとも・・・、その続きは考えたくない。
「足元がふらついていますよ、雲雀くん」
「うるさい」
「呼んであげましょうか?大切な人を」
「君は、最低な人間だね」
「その最低な人間に心を許しているのは誰です?」
反論すらできなかった。心を許している、などと認めたくはなかったが、微笑みながら携帯を見つめるの横顔を思い出してしまい、言葉を失った。まさか、もう、僕よりも。
「本当にだらしがない。もたもたしていると、僕が本気で攫いますよ」
「に、触るな」
「そう思うのであれば、自分で解決するんですね。まあ、今日のところは手を引いてあげましょう」
夕闇に消えるように男は立ち去り、鈍い痛みだけが残った。ついにはバランス感覚を失い、自分自身を支える力も尽きてしまったようだ。ゆっくりとアスファルトが近くなる。本当にだらしがない。あの男に言われた台詞を戒めのように反芻しながら、遠のく意識にを探した。
気付けば見慣れた天井が目に入った。ゆっくりと体を起こすとあいつにやられた脇腹が痛んだ。
「気が付いた?よかった・・・」
これは夢なのか。ここは並中の応接室で、僕は革のソファーに身を預けていて、そして覗き込むように瞳を潤ませたがそこにいる。彼女の話によると、倒れた僕を抱えてきたのは草壁らしい。手当てをするつもりで応接室へ運んできたが、予想外にもがいたため、彼女に委ねて帰宅したとのことだ。全く、情けなくて我ながら呆れる。
「ケンカすることには驚かないけど、負けちゃうなんてびっくりすぎて声も出ないよ」
「十分喋れてるよ」
「もう、人が心配してるのに。で、誰にやられたの?」
「六道骸」
今度こそ本当に声も出なかったらしい。僕の額に乗せようとしてたタオルを見事に落とした。なんて分かりやすいんだ。十分すぎるほどの反応を示したかと思えば、何を言うわけでもなく落としたタオルを拾い上げて当たり前のように僕の額にそれを乗せた。
「急におとなしくなって、どうかしたの」
「どうして、」
彼女の声は震えていた。先ほど滲ませていた瞳とはまた別の色で僕を見つめる。どうして、だなんて、そんなことは僕の方が聞きたいのに、なぜ逆に質問をされているのか。
「僕が、聞いてるんだよ」
「知ってたなら、なんで何も言わなかったの?」
「なぜだと思う?」
返答は、やっぱりなかった。肩が震えているのは泣いているのか、僕への怒りからか、どちらにしても今、彼女の心に闇を作っている原因は僕であって、あいつのせいではない。罪悪感に耐え切れず、小刻みに揺れる前髪に触れてみた。隠されていた表情がそっと顔を出す。
「君が泣くことはないよ」
「だって言葉が、見つからなくて」
「何も、言わなくていい。だから、」
どうして続きが声にならなかったんだろう。どうして僕が泣いているんだろう。口よりも先に手が出るのはいつものことだけれど、今は正に、考えるよりも腕が伸びていた。ただ君を抱きしめることしかできなかった。「ひばり、」と懇願するように呟いた君の声。戸惑いながらも返してくれる小さな手。
しばらくはふたりこうしていよう。あの男のことは忘れて、何も言わずに、誰にも邪魔されずに、僕と君だけの時間を過ごさせてほしい。そしてこの短い夜は終わりを迎えずに、このまま君を閉じ込められたらいいのに。ずっと、僕の腕の中に。
公開日:2010.12.12