好き、なんて、大雑把で、曖昧で、でたらめな感情だけを胸に、今日も。
諦めようにもきっかけがなく、ずるずると引きずってしまう自分が嫌いだ。
いっそのこと、近寄るな、とでも言ってもらえれば楽なのに。
あいつの性格から考えて、そんなこと絶対に言いそうもないけれど。
「、おったんか」
「うん。今日も見に来てあげた。忍足がうるさいから」
いつもと変わらぬ調子で会話を弾ませる、この瞬間。
岳人も横から混じってくると、ここがテニスコートであることを忘れてしまいそう。
そんな至福の時を邪魔するかのような、鋭い視線に気付く。
周りの視線が痛いのは仕方がないにしても、この人に嫌がられる筋合いはない。
「ねえ、あんたたちの部長にすごい目で見られてるのは、気のせい?」
「え?跡部が?」
「ほんまや。態度悪いなぁ」
三人揃って、その張本人に目を向けると、鼻で笑いながら逸らされた。
いかにも、傲慢で、自己中心的で、ナルシストで、私の最も嫌いとするタイプ。
あんな人間に黄色い声を上げる女たちの気持ちがまるでわからない。
ぴょんぴょんウサギのように飛び跳ねながら、部長の文句を垂れる岳人。
すっかり感情移入してしまった私も大きく首を振りながら話に参加する。
二人を宥めながらも否定はしない忍足に、揃ってツッコミを入れる。
またしても和やかな空気を邪魔するかのごとく、休憩終了の声。
二人が去った後、思い切って出来る限り睨んでやると、不意に振り向いたその人と目が合う。
憎たらしい嫌味な微笑みを返され、怒りのボルテージは上がるばかり。
あまりに腹立たしいから、練習中の10分に1回は睨みをきかせてやった。
そのたびに、さきほどと全く同じ表情を見せられるだけで、それがまた悔しい。
ようやく練習も終わり、着替えた忍足と岳人をひっそりと待つ。
それがいつもの光景で、だけど今日に限って違った。
「あれ、岳人一人?」
「細かいことは知らないけど、侑士のやつ跡部に捕まってやがんの」
「じゃあ、まだ帰れないんだ」
「こっちは練習で疲れてんだよ。クソクソ跡部め」
やっぱり飛び跳ねながら変わらぬ調子で部長への不満を繰り返す。
それにもいいかげん飽きたのか、唐突に話題を変える、けど。
「は侑士のこと、どう思う?」
「な、なに?」
「そんな焦んなよ。バレバレすぎて笑える」
一気に染まった頬を必死に隠そうにも、ニヤつく岳人が顔を覗き込もうとする。
背を向けても、すぐ目の前に現れる。
その動作を何度も繰り返すうちに、大きな影が背後にぬっと二つ現れた。
振り向きたいけど、振り向きたくない。
好きな人と嫌いな人。
「おっせーよ」
「悪い悪い。跡部の我侭に付き合うとったんや」
「ふん。どこが我侭なんだよ」
岳人に何かを耳打ちする忍足と、相変わらず憎たらしい笑みを浮かべるテニス部部長。
早くこいつから離れたいのに、この二人がいる以上、私一人が動くわけにもいかない。
「え?まじかよ?」
突然、叫びにも近い大きさの声で驚く岳人。
呆れたような顔をする忍足と二人して難しそうに溜息をつく。
「まあな。岳人、帰るで」
「この場合帰らない方がいいんじゃねぇの?」
「ええんや。黙っとき」
「え、ちょっと待ってよ!私も帰るって!」
岳人の腕に届く一歩手前で力強く引き戻される。
必死にもがくも、てんで敵わない。
わけもわからず二人に救いの目を向け、後ろの男には睨みをきかせる。
「に幸あれ」
「お前に同情するよ、俺」
一歩また一歩と遠ざかる二人に、これほど怒りを覚えたのは初めてかもしれない。
すっかり姿が見えなくなってしまうと、ようやく腕に込められていた力が和らいだ。
半ば諦めて振り返ると、思ったよりも背が高く、思ったよりも顔が整っていることを知った。
聞くところによると金持ちらしいこの男は、そうか、人気の原因は顔と金かと気付く。
「で、なに?こんな時間に女の子を引き止めるなんて、常識知らずね」
「予想通り気の強い女だな、お前は」
再び腕に力が入り、そのまま胸元に引き寄せられる。
離して、と振り解こうにも両手の自由を奪われてしまい成す術がない。
せめて言葉だけでも、そう思い顔を上げた途端に、開きかけた唇は塞がれてしまう。
今度こそ渾身の力で突き飛ばす。
と同時に、思い切りそいつの頬を叩いた。
「、さいってー。最低!」
強気な言葉とは裏腹に溢れ出す涙が止まらない。
こんなやつのために、私は水分を保持しているわけではない。
悔しさも悲しさも、ありとあらゆる感情が入り混じり、それが今の涙となっていた。
「帰って!二度と私の前に現れないで!」
「それは無理な願いだな。お前が忍足を想う限り、その近くに俺はいるんだぜ?」
本当に最低な人間だ、この男は。
人の気持ちを知りながら、それを踏みにじるような好意を平然として行う。
そりゃ、叶わぬ恋だと言われればそれまでだ。
だけど私にとっては大切な、本当に大切な感情で、それ以外の何でもない。
先程よりも更に大きくなった涙が一粒、また一粒と手の平に零れ落ちる。
「そんなに忍足が好きか?」
「あんたなんかに比べたら、天と地の差よ!」
嫌味ったらしく溜息をつき、諦めたように視線を逸らしたかと思えば、またしても腕を掴まれた。
さっきとは打って変わって、真剣な表情で。
「悪いが、お前の想いは届きそうにないな。なぜなら、」
するりと私の髪に手を滑らせる、その動作が、なぜかスローモーションに見える。
一転して柔らかく愁いを帯びた瞳は、私の動きを完全に止めてしまう。
「お前は俺の女になるから、だ」
力強く言い放ったあと、その唇は緩やかなカーブを描く。
掴んでいた手を離し、その手で一滴の涙を拾う。
頬に触れられた手の平が、熱くて、涙さえも渇いてしまう。
「反論がないようなら、了承と見ていいな?」
声を失くした喉が震える。
言葉は、頭の中に山ほど用意してあるにも関わらず、それらが出て来ようとはしない。
完全に沈黙を許してしてしまった唇は、またしても、塞がれてしまった。
二回目のキスは、優しくて柔らかくて、温かい。
まるで夢の中を泳ぐ人魚のような、ふわふわとした感覚にいる。
「夢を見ているかのようだろう。お前は俺様の女なんだからな」
「お前、じゃない。私は、」
「、好きだぜ。これで満足か?」
誇らしげに見下ろす姿は、やっぱり傲慢で、私の嫌いなタイプだ。
だけど、この人に限ってはそれすらも許されてしまうから不思議で仕方ない。
すっかり抵抗力を失ってしまった全身が、すっぽりとその胸に収まる。
諦めるきっかけを手にした瞬間、全く別のものを手に入れていた。
否、手に入れられていた、と言ったほうが正しいかもしれない。
傲慢で、自己中心的で、ナルシストで、そんな一人の男の手に。
「なあ、侑士。あれでよかったのかよ?」
「しゃーないやん。跡部には敵わんからなぁ」
「譲ったわけだ。俺たちのを」
「ま、そういこっちゃ。たこ焼きでも食べて帰ろか」
「今日だけは付き合ってやるよ」
「おおきに」
染まり始めた夕方の風は、頬を優しく撫でていく。
更には、閉じ込めていた想いを乗せて、遠くに、遠くに、飛んで行った。
公開日:2009.01.03
title by 自主的課題