最初で最後の誓い

センパイ見つけた!
渡り廊下でぼーっとしていたセンパイの姿に足を速める。本当は走って行きたいところだけど、副部長に見つかったら長い説教が始まるのでペースを抑える。副部長の説教なんかのせいでセンパイに会えなかったら嫌だもんな。

目標まで10mもない距離まで近付き、その名を呼んで自分の存在を知らせようと口を大きく開く。ただ立っているだけかと思っていたその人は、誰かの姿をそっと目で追っているようで、つられてその相手に目を向ければ、ああ、やっぱり。十分に目立ちすぎる赤い髪。それを認識すると同時に足は止まり、喉まで出かけていた声も引っ込んだ。

そのまま突っ立っているのもバカらしいので、今来た道を戻ることにした。この状態で声をかけられるわけがない。きっとセンパイは何事もなかったように「どうしたの?」と笑ってくれるだろう。悲しみを押し込めて、悟られまいと冷静を装う姿など見たくないし、見せてほしくない。

おかげで授業中も上の空だ。頭に入ってこないのはいつものことだけど、眠ることもできないから辛い。さっきの、あの悲しげな視線を思い出してはイライラして、そんな頃に運悪く当てられたりするから最悪だ。もちろん答えられるわけがない。

次の授業は出なかった。少し一人になりたくて都合のいい場所を探す。この時間なら図書室もお手頃だけど自習と重なれば柳生先輩が来ることを知っている。あまり悩んでしまうと誰かに見つかりそうだ。確か、午後からは移動授業が多いとジャッカル先輩が言っていたからだ。
結局選んだのは「運がよければ誰もいない」屋上だった。仁王先輩あたりが昼寝してそうだとも考えたが、そんな予感が当たらなければいい、と探るようにそっと鉄のドアを開くと青空だけが広がっている。

こないだのセンパイを思い出しながら、ごろんと横になると、今日も空は青くて雲がゆっくりと流れていた。こんな気分の日には曇っているくらいがちょうどいいのに。自分勝手な不満を並べて相変わらず澄んだ空を睨みつけると雲間からのぞいた太陽の光が眩しい。思わず目を閉じた。

「切原くん、授業サボったら駄目でしょ」

ギィ、とドアの開く鈍い音がして露骨に顔をしかめたが、聞こえたのは正に今頭の中を支配していたその人の声で、複雑な胸の内とは裏腹に体を起こして顔を上げた。一瞬確かに視線は合ったが何気なさを装って、そっと目を逸らした。会えて嬉しくないわけはないが、今は素直に喜べないのが本音だ。

「・・・ッス」
「なんだかご機嫌ナナメみたいね。真田にでも怒られた?」
「なんでもないっス」
「あ、そう」

つまらなさそうに唇を尖らせる。そんな表情も可愛くて、やべぇ今すごく抱き締めたい。だけど今それをすると、きっとあの日と同じ結果になる。勢い余ってキスしちゃって、おまけに舌まで入れちゃって、挙げ句に押し倒してしまう、なんて最低だ。
あれはあれでセンパイと付き合えることにはなったから結果オーライだが、エロだの変態だの、さんざん言われ続けたのはさすがに頭が痛かった。だから、しばらくは手出しできないのだ。押し倒したのは確かにやり過ぎたけど、その先はガマンしたじゃん。

「なーに拗ねてんのよ。悩みがあるならお姉さん聞いてあげるよ?」
「悩んでるのはそっちでしょ」
「・・・どういう意味?」

売り言葉に買い言葉ってやつだ。思わず言ってしまえばもう遅い。答えるまで帰さない、といった顔でこちらを見ている。「さあ?」とあくまで冷静にごまかしてみたけど、内心は心臓がバクバクうるさくて、早くこの時が過ぎればいいと必死に願っている。まるで幸村部長が微笑みながら怒りを露にしているのとよく似ていて、いや、それ以上に冷や汗が止まらない。

「ねぇ、私が何を悩んでるの?教えて」
「んなの、自分で考えたら分かるんじゃないんスか?」
「心当たりはないけどね」
「うそつき」
「つく嘘もないよ」
「じゃあ、今朝ずっと見つめてたのはなんスか?未練たらたらじゃん」

センパイがあまりに食い下がるから、ついこちらも語尾が強くなる。イライラが募って、とうとう言ってしまったのだ。強気な表情が一瞬で崩れて、まるで絶望の淵に立たされたような顔になる。やべぇ。

「た、たまたま見ちゃっただけっス。ま、気になるのは仕方ないッスよね。思い出は美しいものだ、とか副部長なら言いそうだし」

今にも泣きそうな表情でコンクリートを見つめるから、どうにかしてその心を動かそうと試みた。だけどダメだった。ゆれる瞳に水分がどんどん集まり、重みを増したそれはぽたりと落ちてしまった。やっぱり最低だ、俺。

センパイ、ごめん、俺、」
「謝るのは私のほうなのにね。なんでだろうね。なんで、なんで、今でも、」

続きは聞きたくなかった。きっとセンパイは俺が最も聞きたくない言葉を発するつもりだ。俺じゃない誰かへの想いを、その唇が紡ぐのだ。そんなの耐えられるわけがない。

「やめてくださいよ。それ以上、言わないで」

言葉を遮るために、力任せに抱き締めた。骨が軋む音が聞こえた気がしたけど、そんなことどうでもよかった。誰かを想うセンパイなんて、もう見たくない。ずっと見続けてきたのだ。それでも知らないフリをして無邪気な後輩を演じて、チャンスを待っていた。傷ついていることを知りながら無理矢理自分の中へ引きずり込んだ。表向きは『俺が傷を癒してあげる』だったけれど実際はそんな良心的な判断はひとつもない。ただ、欲しかっただけ。そう、始めから俺は最低な奴だった。

「切原くん、痛い」
「ンなの、知ってますよ」
「離して」
「イヤ」
「どうして?」
センパイは俺のでしょ?他の奴なんて、見ないで」
「ごめん」

何について謝られているのか最初はよく分からなかった。
だけど少しの沈黙の中で気付いたのは、それは俺にとって嬉しい「ごめん」ではない、ということ。おそらく「あの人が今でも好きでごめんね」と言いたいのか、「切原くんを見れなくてごめんね」なのか、どちらかだろう。そんな謝罪なら必要ない。

「俺はセンパイのことすげぇ好き」
「ありが」
「礼なんていらないんスよ。俺のこと好きになってくれたら、それでいい。そのほうがセンパイは絶対に幸せなわけ」
「う、ん」

どうして泣くの?何が苦しいの?俺はこんなにセンパイを想ってるのに。他の人なんて見えないのに。あんな人より、俺の方がずっとずっとセンパイを幸せにしてあげられるのに。これの、何が不満?

俺に気を遣うように堪えながら涙を流すから、それがまた辛くて、抱き締める腕に力を込めることしかできなかった。「痛いよ」と、今にも消えそうな声が聞こえたけど離してやらない。そんなのより俺の心臓はもっと痛ぇよ。
だからセンパイ、この腕の中で悲鳴を上げ続けて。そうすれば、ずっと俺のこと思っていられるでしょ?憎んでいいよ。恨んでいいよ。どんな感情を選んでもいいから、お願い俺だけのセンパイでいて。離さないって約束するから。この、嫌味なくらい澄んだ青空に、誓うから。

センパイ、好き」
「うん・・・」

止まらない涙を舐めると、やけに塩辛くて舌が痛んだ。そのせいだろうか。いつしか俺の頬にも涙が伝っていた。泣いてラクになれるなら、きっと二人はもっと幸せになっているはずなのに、今の俺たちはどちらも不幸せの真ん中にいる。ここから抜け出す方法は、誰かが何かを諦めるしかないんだろう。だけど俺は絶対に諦めない。もう、あとには戻れないのだから。

どうせ一方通行なら、進むしかない。くたくたになって足が動かなくなっても、いつかは道が広がるかもしれないと信じて歩こう。鳴り響いた授業の終わりを告げるチャイムが、俺にとっては始まりの合図に聞こえた。半開きになったままの鉄のドアを睨みつけて戦闘準備を整えると滲んでいた視界はクリアになり、遮るものなど何もなかった。

腕の中で震えるセンパイのおでこにそっと口付ける。上目遣いの潤んだ瞳は存分に理性を刺激したが、それ以上に、この人を二度と泣かせない。泣かせる奴は許さない。そんな思いが目に色を与えていくのを感じながら、間もなく始まる混沌の日々にそっと舌なめずりをした。

公開日:2011.10.31