夕やけを過ぎてゆく

幾日もほったらかしにしていたかと思えば突然呼び出され、だけどそんなことへの驚きや怒りなんかより、久しぶりのデートへの喜びと期待の方がずっと大きかった。
服装にも必要以上に気を遣って、待ち合わせの定番スポットへ向かったというのに。

「別れてほしい」

彼が発したのは、予想だにしていなかった言葉で、見たこともないほど申し訳なさそうに頭を下げる彼に対して嫌だと言えるわけがない。けれども、冷静に「うん」と言えるほど大人になりきれてはいなくて、反対に、大泣きしてまで彼を留めようとするほど子供にはなれなかった。

コーヒーカップを口から離し理由も聞かずに席を立つと、冷めたコーヒーがカップの中で静かに揺れるのが見えた。結局、私は背伸びをしていただけだったのかもしれない。慣れないコーヒーを飲むのも、鳴らない電話を気にしていないふりをするのも、ひとつ上の彼と付き合うのも、ぜんぶ。

考え出すとキリがなくて、ぽろぽろと涙が零れてしまう。きっと瞼は腫れてしまって、仁王やブン太にしつこく理由を聞かれるんだろう。そして私は今日の日を思い出してはまた涙を流し、焦るふたりに屋上へ誘導されるんだ。そうはならないよう、涙を乾かしたい。まだ冷たいこの風に頬を晒して、跡形もなく消してしまおう。

風が流れる場所を探して公園へ来てみたけれど、夕暮れのベンチは嫌味なくらいきれいだったから腰掛けることはできなかった。だからこうしてブランコに揺られ、目を閉じている。そういえば、彼と付き合い始めた頃、「ふられたらブランコで泣くんだ」と笑っていたことを思い出した。幸せいっぱいのあの日の私は、その言葉が実現する日がくるなんて、思いもしなかったんだろう。

苦笑いでごまかすと、センチメンタルに胸が押しつぶされそうになる。そこへ、まるで救いの手を差し伸べるかの如く、鞄の奥で携帯が震えた。悪い夢から目覚めてほっとしたような、感傷に浸っていた時間を邪魔されてがっかりしたような、複雑な乙女心と戦いながら、鳴り続けるそれを開く。こんなタイミングで電話してくるなど、あの子は相変わらず空気が読めない。通話ボタンを押すと、自分とは正反対の元気な声が流れ込んできた。

『もしもし!俺ッス!』

『先輩?先輩?』

『センパーイ!聞こえてますか?』

電波に乗って届く子犬のような息遣い。何度も私の名を呼んでは、詐欺のように、「俺ッス」を繰り返す。少しかわいそうな気もしたが、こんなときにかけてくる赤也が悪い。よりによって、失恋直後だ。矛先を知らなかった怒りや悲しみが見つけた標的は、こちらの都合などおかまいなしのご様子。まったくタチが悪い。

『先輩、もしかしなくても機嫌悪いッスよね?』
「わかってるなら言わないでね」
『やっと答えてくれた!先輩どうしたんスか?まさかフラれちゃったとか?』

あっけらかんと爆弾を投下し、「まさかね」と言いながらカラカラと笑う。今度こそ無視を決め込んだ私にようやく違和感を覚えたのか、ごくりと息を飲む音が聞こえた気がした。

『・・・先輩?』

渇きを求めて揺られたはずのブランコは流れる涙に辟易するかのように停止していて、勢いにまかせてつま先で地を蹴れば、コンクリートを小石が転がっていく。砂利に紛れて見分けがつかなくなる頃には、溢れ出した涙も嗚咽に変わっていた。悟られぬよう、必死で口元を押さえるけれど、電話の相手は知ってか知らずか黙ったまま。

ぎゅっと瞑っていた目を、ゆっくりと開けばコンクリートにはいくつもの染みができていて涙を誘った。そして、それを覆い隠すような影が現れる。見間違えようもないこのシルエットは、やっぱり。

「いた」

携帯を握り締め、肩で息をしながら汗を流している。こんなにも息を切らした彼を見るのは強敵を相手にした試合の直後か、真田にこっぴどく叱られているときくらいだ。しかし今の彼は、そのどちらとも違った顔をしている。

「アイツと、別れたんスか?」

確信を持ちながらも語尾にはクエスチョンマークが添えられていて、強がる気力も嘘をつく理由もなかった私はそれが当然であるように、ただ頷いた。

「けっこう好きだったんだよね」
「知ってましたよ」
「そっか」
「なんで知ってたのかって、聞いてくれないんスか?」

聞かずとも分かる。彼が私に対して、年上の女性に憧れる以上の感情を持っていたことは割と前から気付いていたし、それを知りながら、あくまでひとりの後輩として扱ってきた。「赤也は無邪気じゃのう」と嫌味たらしい仁王の言葉を無視するほどには。

「俺、先輩のこと、」
「ごめん、それ以上は言わないで。今優しくされたら、赤也に頼っちゃうし、結果的に傷つけちゃう」
「ンなこと気にしないで頼ってください。それくらいで先輩がラクになれるんなら大歓迎ッス」

年下でも男だ。ましてや彼は、我が立海テニス部のレギュラーで、そこらの一般生徒よりずっと逞しい。だから、こうして躊躇いながらも私を抱きしめるその腕はとても力強くて、トレーナー越しの体には筋肉がついているのが窺える。想像したこともなかった赤也の胸の中は、なぜだかあの人よりも居心地が良くて、抑え込んでいた感情が顔を出してしまう。

「先輩、泣かないで」

問いかけるように宥めるように涙を拭う親指はひどくぎこちない。触れた指先は笑ってしまうほど震えているし、そこから伝わる体温は、どうしようもないほど熱すぎる。まるで私の中に流れる熱をすっかり奪われてしまったみたいだ。

「赤也の指、熱い」
「そりゃそーッスよ。好きな人抱きしめて平然としていられるほど俺できた人間じゃないッス」
「私のこと好きなんだ?」
「そ、そういうこと言いますか?フツー」
「だって赤也かわいいんだもん」
「そうやってすぐからかって・・・。でも、そんな先輩が好きッス」

顔を真っ赤にしながらけれどもしっかりと発せられた声に、不覚にもきゅんとする。失恋で感情が不安定になっていることもあるけれど、きっとそれだけじゃない。ゆっくりと、時間の流れが変わり始めるのを感じた。

「付き合ってください。俺は先輩のこと絶対に悲しませたりしないんで」

まっすぐに向けられた視線を逸らすことはできない。それどころか、体が動かなくなってしまったようだ。この金縛りを解く術を私は知っている。

「期待してる」

涙まじりの笑顔でそう答えると、目の前の少年は小さくガッツポーズをした。なんてかわいいんだろう。今日の傷が癒えるには、もう少しだけ時間がかかりそうだけれど、それもきっと彼が解決してくれる。確信と希望を乗せて、いまだ染まったままの頬にそっとキスをした。

「手、つないでもいいッスか?」

夕焼けが柔らかな熱を帯びて、ふたりを侵食する。その温かな光に包まれて始まる、彼と私の物語。結末は君次第だよ、赤也少年。

公開日:2011.03.21

title by 金星