flightless

今日ここを発つことは誰にも告げずにいた。
「見送ってくれ」と言ってるようなものだし、どうせ出戻りだ。
何より感傷的な空気というのが私は苦手だった。
向こうへ着いてから手紙の一通でも出せば知らず知らずの内に話は広まっていくだろう。
そういえば、便箋はキャリーに積んだかあちらへ送ったか、どっちだっけ。なんて思考をめぐらせて、その程度向こうで買えばいいと気付く。
そんなことをぼんやりと考えていたら、バスの車内アナウンスが流れた。

「間もなく 第1ターミナル、第1ターミナルです。」

手荷物を確認してバスを降りる。
耳に響くエンジン音に、なぜだかずきんと胸を打たれた。
迷って、いるのだろうか。
旅立ちを目前に迷いが生じているとしたら、これは大きな想定外だ。
"立つ鳥跡を濁さず"をモットーにここまで来たのに、こんな所で立ち止まってる場合じゃない。
そんな思いとは裏腹に、手が震えているのがわかった。
それと同時に、あの日の会話が頭をよぎる。

『行くのですか?』
『どこに?』
『はぐらかすのはよしなさい。イタリアへ、です。』
『なんだ、知ってたの。そうね、行くわ。私の居場所はここにはなかったから。』
『居場所を求めてまたあちらへ?』
『それが何か?』
『いいえ、貴女らしい発想だと思ったのですよ。非常に浅はかな、らしい。』

図星をつかれたからか、腹を立てたからか、とにかく私はだんまりを決め込んだ。
引き止めてほしかったわけじゃない、と自分に言い聞かせても上擦る声は期待を示していた。
けれど強情な私は結局そのまま旅立ちを決め、別れの挨拶もせずに今ここへ来ている。
荷作りが進む中で、気持ちは固まったはずだった。
もう振り返りはしないと、確かに誓った。

随分と重さを増した気がするキャリーバッグを引きながら、溜め息が零れる。
断ち切るようにサングラスを外した視界は先程と大差もなくモノクロームの世界で、それが私を余計に苦しめた。
1時間前に家を出た時は、もっと希望に胸を膨らませていたはずなのに。
出発が近付くにつれ、いや、あの会話を思い出したことで、憂鬱や後悔、不安が目の前で渦を巻く。

元はと言えば、あの男の誘いで日本へ戻ってきたというのに、あの男の所為で日本を離れると決めた。
18まで過ごした母国だ。居心地が悪いはずもない。
そのままこの国で生を遂げるだろうと半ば確信していた心は見事に砕かれた。
イタリアにいた頃の私は、毎日を忙しく過ごし、めまぐるしい時が流れていくことで自分の居場所を見出していた。
マフィアの庶務という、お世辞にも立派とは言いがたい職務だったけれど、私は満足していた。
危険に晒されることがありながらも、旧友に囲まれ、充実感に満たされていた。
それでも、

『日本へ行きます。一緒に来ますか?』

たった、その一言にこの胸を動かされ、ついてきた。
だけど祖国へ戻った私を待っていたのは、平穏だけれどひどく空虚で、まるで置物のような生活。

思い出しては苦笑いを浮かべ、時計を見る。
出発まで、4時間近くある。まだ4時間、いや、もう4時間。
乗ってしまえば戻れない片道きっぷが鞄の中でせせら笑うようにさえ思えた。
ああ、失敗した。こんな調子じゃ跡を濁さずどころか、飛ぶことさえできない。
ちらりと視線を上げれば大きな窓の向こうで飛び交う飛行機。
更にまた、ずんと胸に重く響く。

「おやおや、その様子ではあちらで仕事をまっとうできそうにありませんね。」

思わずそちらへ顔を向ければ、不敵な笑みと共に、いつの間にかその男がいた。
目が合えば、つかつかとこちらへ歩み寄る。

「お見送りに来ました。おや、何を驚いているのでしょう?なぜ僕がここへ、とでも言いたそうな顔ですね。僕の情報網を侮らないでいただきたい。それに、貴女の考えることなど手に取るように分かります。」
「…何しに、来たのよ。」

高鳴る心臓と裏腹に口から出るのは悪態だった。
それでも尚、その男は笑みを浮かべている。まったく、不愉快極まりない。

、貴女は何も分かっていませんね。目に見える物でしか測ることができませんか?」
「こっちの質問に答えて。何をしにここへ来たの、と聞いてるの。」
「答えているつもりですが?やはり、貴女は実に浅はかですね。浅はかで浅はかで、とても可愛い。」
「話をそらさないで。」

馬鹿にされたことに腹を立て、つい語尾が強くなる。
それすらも愉しむように男は笑みを浮かべてこちらを見ている。
こっちにしてみれば、何が言いたいのか、何を考えてるのかさっぱり分からず、泣きたいぐらいだというのに。

「貴女の疑問を一つずつ解消して差し上げましょう。まず、なぜ貴女を日本へつれてきたか。当然ながら僕の傍に置いておくためです。次に、なぜ仕事も与えずあの部屋に閉じ込めていたか。を危険から守るためですよ。そして、なぜ僕がここへ来たか。貴女の期待に応えてあげるためです。……ご理解、いただけましたか?」

不敵な笑みが、ふっと解け、困ったように眉尻を下げる。
その表情に、なんだか申し訳なさを覚える。

「落ち込むことはありません。真意を伝えなかったこちらに落ち度があります。何もかも、僕の我侭ですよ。を僕の手で守るための。」
「あの時、言ってくれたらよかったじゃない…。」
「ええ、そうですね。ですが、まさか貴女が本当に日本を離れる決意をするとは思いませんでしたので。」

この男は滅多に顔色を変えない。それが私をいつも腹立たせた。
私は何かと感情的になる。それをいつもこの男はせせら笑った。
まるで反対の二人だが、不思議と馬が合った。でこぼこのピースがぴたりと重なるように。
怒って泣いて、笑って喜んで、感情という感情を引き出され、私は恋をした。
そして、この男もまた、私を愛してくれた。
離れたくない、傍に居たい。けれど素直になれない私は、こんな所へ来てしまった。

「さて、どうしましょうか?…いえ、それでは何も変わりませんね。帰りましょう、。」

不意に柔らかく微笑まれ、泣きそうになる。
この人は変わろうとしてくれている。ならば、次は私の番だ。
キャリーバッグから手を離して駆け寄り、思い切り抱きつく。
抱きしめ返された腕の温かさは、待ち焦がれていた人の切り札、口には出さぬ優しさだった。





「そういえば、チケット代、どうしてくれるの?」
「貴女という人は…。」

呆れ口調と溜め息に思わず吹き出せば睨まれる。
こんな二人も悪くないかな、なんて口元を緩め、青い空を仰ぐ。
散らかし放題の飛べない鳥だけど、帰る場所があるだけよしとしよう。

公開日:2015.06.22
企画「on the journey」様へ お題「飛行機 〈Airplane〉」