Whammy Kiss
上司である政宗と交際を始めた、否、始めさせられたことをきっかけに、の悩みの種は一つ解消されたように思えたが、それはとんでもない思い違いで、むしろ、新たな悩みが続発するばかりだった。

まず一つ。
以前まではあくまで上司と部下。会社の外で会おうがプライベートの交流を持とうが所詮は上司と部下に過ぎなかった。
しかし、あの夜を皮切りに交際がスタートしてしまってからは、自身にその気がなくとも恋人同士であることは否定できない。
職場では可能な限り二人の関係を忘れることで仕事に専念できているが、ひとたび会社を出れば恋人という関係が浮き彫りになる。
意識してしまえば視線を合わすことはおろか、隣に政宗が居るというだけで緊張が走るばかりだった。

二つ目。
あの日、初めて政宗とキスをした。唇が重なっている、ただそれだけで全身を硬直させてしまったに政宗はそれ以上を求めることはしなかった。
その後も、キスをすることはあっても軽く触れるだけのもので、その先に進むことはない。
そんな日が続いたある日、さすがの政宗も我慢の限界だったのだろう。
いつものような、触れてすぐに離れるキスではない。角度を変えながらしばらくの間唇が離されることはなく、ついには政宗の舌先が侵入を開始した。
視線を合わせることすらままならないがそれを拒絶するのは当然で、驚きの余り政宗の頬を引っ掻いてしまったのだ。
引っ掻き傷を付けられた不機嫌な表情を向けられると、困惑と申し訳ない気持ちで一杯になったは慌てて車を飛び出した。
翌週の朝礼で顔に傷を作った政宗を目にした瞬間のの落ち込み様といったらない。

最後に。
咄嗟とはいえ、上司兼恋人の顔に傷を付けてしまったは謝罪することができないまま毎日を過ごし、合わせる顔がない。
おかげで、職場では可能な限り関わりをもたないよう努め、電話は無視を決め込み、メールは返信するものの用件のみに済ませている。結果、必然的に政宗からの誘いは断り続けていた。

そして今日で丸々1週間を迎える。
何度謝ろうと考えたことか知れない。しかし、どう切り出したものか決めあぐね、また勇気が出ないのも事実だ。
尽きることのない悩みに苦しめられながら、今日も今日とて溜め息を携えキーボードを叩く。
金曜の夜。本来であれば政宗と食事に行くはずのだが、しっかりと残業を抱え込んで逃れる準備を整えている。
政宗からのメールにも「仕事が終わらないのでごめんなさい」と一言だけの簡素な返信をしておいた。
1時間ほど前に政宗が退社したのを確認したは、これ以上ない安堵の溜め息を漏らした。

時刻は22時を回ろうとしている。
疎らに残っていた他の社員も皆、金曜の夜ということもありすっかり姿がなくなっていた。
広いオフィスの中での席周りにだけ蛍光灯の光が灯されている。やはり薄暗い。
残業をするため日中から同僚の仕事を引き受けていたこともありなかなか片付かず、さすがに疲れ始めていた。
キーボードを叩く手を止め、軽く伸びをする。どれも今日終わらせなければならない仕事ではない。
キリのいいところで帰ろうか、とも何度か考えたが、邪な思いで引き受けた仕事ゆえ、の良心が痛んだ。

一旦休憩しようかと席を立とうとしたところ、入り口から開錠を知らせる電子音が聞こえた。
22時には警備員が見回りに来ることになっていることを思い出し、警備員が去るまでは仕事をしていようと思い直し再びモニタに向き合う。
カタカタとキーボードを叩く音に、近付いてくる足音が反響するようにぶつかる。

「遅くまで熱心だな。真面目な部下を持って上司としても鼻が高いぜ」

は耳を疑った。すぐ後ろに迫る人物は警備員などではなく、最も顔を合わせたくない、否、顔を合わせづらい渦中の人物なのだから。
振り返ることもできず、かと言って作業を続けるわけにもいかず、キーボードの上に置いた手をそのままに作業を中断した。

「で?知らぬ振りはいつまで続くんだ?」

怒るというより呆れた物言いにもやはりは振り返ることができず、そっとキーボードの上から手を下ろし膝に置いた。
その様子に溜め息を吐きながら、隣席に政宗が腰を下ろす。長い足を組み、じっとりと視線を寄越してくる。
恐る恐るそちらへ向き直り、やっとの思いで頭を下げた。

「この間は、ごめんなさい」
「ようやく、か。どこの猫にやられたんだと散々からかわれたが、まあいい。それより、俺の何が気に食わねえのか言え。目を合わせようともしねえとは、どういう了見だ?」
「気に入らないなんて、そんなことはありません。ただ…」
「ただ?」
「伊達部長とお付き合いしているなんて、やっぱり実感なくて、一緒にいると変に緊張してしまうんです」

打ち明けられなかった本音をようやく告げることができたが、は政宗の機嫌を損ねないか不安があった。
女慣れしている政宗のことだ。この年齢になっても異性との付き合いが下手な女など面倒なのではないか、と。
きれいさっぱり終わらせてくれればいいものの、自分から交際を申し込んだ負い目があるのか、政宗はそういった類の文句を寄越すことはない。それが一層を悩ませていた。

「Hum. 緊張、ね。お前の交際遍歴なんざ知り尽くしてる。だからこそ、時間かけて慣らしてやってんじゃねえか」
「すみません…」

なぜ知り尽くしているのか尋ねたい所ではあったが、大方想像はつく。
それよりも今は政宗の機嫌をとることに専念しなければならないとは思考を働かせた。
ここまで必死になる理由を自身よく分かっていないまま、とりあえずとばかりに頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返す。

「その謝罪は本心か?」
「は、はい。勿論です。悪いと思っています」
「なら、態度で証明してみせな」
「態度、ですか?私は何をすれば?」
「キスさせろ。反論は認めねえ」

立ち上がった政宗がを見下ろしながら淡々と告げると、は驚きに目を丸くした。
誰もいないとはいえオフィスの一角で上司とキスなんて、には考えられない。
宣言されてから、というのも恥ずかしい。断りたい。しかし断れないのが現状だ。
逃げ出したくなる衝動を抑えながら、渋々といった風に承諾し、そっと視線を上げれば政宗は口角を上げ悪戯な笑みを見せる。

「先週の続きだ。今日は引っ掻こうが暴れようが止めてやらねえから覚悟しな」

条件反射で思わず身を硬くすれば大丈夫だと背中を撫でられる。
幾度目かの軽いキスには慣れを覚え始めているのも事実だが、その先は政宗とはまだ経験していない。
啄むように触れては離れ触れては離れを繰り返した後、ぴったりと唇を塞がれる。
何度も角度を変えながら呼吸を飲み込まれる感覚に翻弄されていると、唇の割れ目に政宗の舌が当たった。開け、とせっついているのだろう。
言われるがまま力を抜けば、ぬるりとした感触が口内への侵入を開始する。
歯列や唇の内側を始めとし腔内を丹念に舐めとられ、そのたびにぴちゃりと水音が響く。羞恥からか、自身が溺れ始めてしまっているのか、聴覚が刺激されれば呼吸は荒くなる。
そして最後に、の舌を絡め取るように政宗のそれが掬い上げると、唾液が混ざり合う感触に思わず身を捩らせた。
体の奥が、じんじんと熱い。心臓の音もやたらと煩くて全身に変化を知らせているような気さえした。
ただのキス程度で、行為に及んでいると体が勘違いしてしまっているのではと思ってしまうくらいに、とにかく熱い。
与えられるだけの濃厚な口付けであったが、いつしかからも求めるようになっていた。もっと欲しい、触れてほしい、と強請るように。

どれだけの間そうしていただろうか。
どちらのものとも区別がつかない唾液の糸を伝わせながら艶やかな笑みを浮かべた政宗の顔が視界に映り始める。
慣れない長いキスに肩で息をついていると、再び唇を重ねられたが今度はすぐに離された。
耳元に唇を寄せられ、それと同時にパチン、とコンセントのスイッチをオフにする音が聞こえる。どうやらパソコンの電源を落としてしまったらしい。

「そこまで残業がしたいなら外回りと行こうじゃねえか。これは上司命令だ。You see?」

色気を含んだ低い声音が耳に注ぎ込まれると、数分前までの恥じらいや緊張が嘘のようには頷いていた。
そして再び唇を奪われ、先程よりも熱を増した舌先にこちらもまだ熱を持った口内を蹂躙される。
2人きりの薄暗いオフィスに、荒い呼吸と唾液の混じり合う水音だけが響く。
ぴちゃり、ぴちゃり、と、まるで真夜中のキッチンで蛇口から水が滴り続けているような。
仕舞いにはもここがオフィスであることを忘れて夢中になっていた。なんと中毒性の高いことか。

それは、巡回に来た警備員が入室するまで延々と続けられた。たまたま鉢合わせてしまった不運な警備員に職権乱用で半ば脅しに近い口止めを政宗が強いたのは、また別の話。

公開日:2013.05.30
伊達部長シリーズ第2弾。たぶん続きます。