WEEKEND'S BLUE
何かおかしい。そう違和感を覚え始めたのは一体いつの頃だっただろうか。はキーボードを叩く手を止め小さく溜め息を吐いた。
モニタの右下にそろりと目をやれば、時刻は17:10を過ぎていて、もう20分もすれば終業時刻だ。
が現在勤めている企業、伊達コーポレーションは長い歴史を持つ優良企業であり、給与や福利厚生それから勤務形態など、勤続4年目である今になっても不満を持ったこともない。
ただ一つ、の悩みの種は、おそらく20分後に顔を出すのだろう。

迫りくる定時に同僚らは皆、1分でも早く退社しようと最後の追い上げに精を出している。
中には既に残業が確定しており嘆き始める社員もいるが、自身もその一人であればと憂鬱に顔を歪めた。

就業を告げるチャイムが鳴り、今日も逃げ道が見付からなかったはそっと項垂れる。
そして追い打ちをかけるように、デスクトップに『メッセージあり』の通知が表示された。
差出人など中身など見なくても、分かっている、見当はついている。
それでも開いて返信しなければならない。加えて、そこに書かれているであろう誘いを了承しなければならない。

メールの差出人は、伊達政宗。
伊達グループ会長の孫であり現社長の長男である彼は、未来の伊達グループを担うに最も相応しい人物だ。
正に非の打ちどころのない、業界きってのホープと言われている彼は、その若さ、容姿、仕事ぶりから、女性社員が噂しない日はないし、嫉妬や羨望はあるものの男性社員からも一目置かれている。
ついでに、の所属する部署のキーマンであり、上司の上司にあたる。


From:伊達部長
Title:今夜の件
今日は金曜だ。もちろん、予定は空けてあるだろうな?
俺はまだ仕事が残っていて、悪いがすぐ出られそうにない。
19:30に、いつもの場所で。
See you later.

P・S
お前好みのカクテルが豊富な店を予約しておいた。


送られてきたメールを開き、は再び溜め息を吐いた。先程よりもやや深い。
小さく唸りながらも、『承知しました』と簡素な返信をすると、居室の中央、窓際に位置する座席に目をやれば、予想していた通り目が合った。
愛想笑いを浮かべて視線を戻し、モニタに隠れるようにして今度は深く長い溜め息を吐く。

これこそ、の悩みの種。
付き合っているわけではないし、恋愛感情もない。もちろん、上司としてビジネスマンとして尊敬はしているが、それ以上の感情はない。
ただ、が今の部署に異動となった半年程前から食事に誘われるようになり、意外過ぎた申し出に戸惑っている内にその頻度は増し、いつの間にか毎週金曜は二人で食事に行くのが習慣となっていた。
土日などの休日に誘われることもしばしばある。何気なくゴルフがしてみたいと漏らせば翌週にはコースへと連れ出されたし、気になる映画の話題を出せば当然誘われた。
どれも誘われることを狙った上での発言ではなく、会話を続けるため自分の興味や関心を持ち出したに過ぎない。
がその話をした直後に「そうか」と思案するような表情を浮かべる政宗を見て、毎度しまったと思うのだ。

何度断ろうと考えたか知れない。
しかし相手は上司、それもただの上司ではなく、未来の社長様だ。
下手に機嫌を損ねれば、せっかく入社した大企業をクビにされかねない。
そんな思いで、ここまでずっとは彼の誘いを断れずにいた。
幸い、下心がある素振りはなく、手を出されたことは一度もない。それどころか、必ず自宅まで送ってくれるし、休日であれば迎えにも来てくれる。
支払いは当然のように政宗が済ませ、が財布を出そうとすれば制止される。
そして決まって「俺が誘ったんだ。お前に金出されちゃ立つ瀬がねえ」と返されてしまう。
申し訳ないと思いながらもいつも奢ってもらい、腹を満たして帰宅する。
イチ社員がいい気なものだと友人は笑うが、最終的には「羨ましい」の一言だ。

確かに、贅沢な状況を与えられている。というより、住む世界が違いすぎる。
食事する店だって、の給料ではそうそう通えないランクの店ばかりだし、乗っている車もBMWの6シリーズと、庶民にはなかなか手の届かないクラスだ。
それもこの若さで乗っているのだから、さすが大企業の御曹司はレベルが違うと圧倒させられたのは、初めて食事に誘われた夜だった。
そこまで思い返し、は再びパソコンの時計に目を向けた。時刻は間もなく18時を迎えようとしている。
空残業をするわけにもいかないので慌てて目の前の書類に手を伸ばし、しばしの現実逃避にと仕事に打ち込んだ。

あっという間に時は過ぎ、は重たい腰を持ち上げ地下駐車場へと向かった。
オフィスを出る前に確認した限り政宗は打ち合わせをしていたので、もうしばらく待つことになるだろう。
手持ち無沙汰にしばらくスマートフォンを弄っていたが、カツカツと足音が聞こえたのを合図に鞄へとしまい、足音の方へとは目を向ける。

「悪い、待たせちまったな。この時間になって猿の野郎が厄介な承認依頼してきやがって」
「お疲れ様です。それほど待ってもいないので気にしないでください」

軽く会釈をしてが答えれば、政宗は微笑みキーを取り出す。
ピ、という電子音と共にロックが外れ、手慣れた仕草で政宗は助手席のドアを開ける。
何度経験しても一向に慣れない。これはが、男性経験が豊富ではないこともあるが、それだけではなく、政宗の一挙一動がいちいち絵になってしまうためだろう。
女性社員がこぞって噂するように、確かに政宗は容姿端麗だ。
幼少の頃に患った病で片目を失ったらしく常に眼帯をしているが、それすらも様になる。
それに加えて、すらりと伸びた手足、程よく鍛えられた身体。どれをとっても完璧だ。

そんな彼が、どうして自分を。は常々その疑問と戦っている。
私はブスだなんて卑屈なことは言わないが、特別に美人だとはお世辞にも思えないし、貧乳ではないにしても巨乳とも言えない。とりあえず容姿に関しては標準的だろう。
繰り返し誘われるからには少なからず好意を持たれているとは思うが、だからと言って交際を申し込まれることも体を求められることもなく、ただ食事をして、それなりに会話をして、送ってもらって別れるだけ。
政宗の目的が、には全く読めないのが現状だ。

「どうした?ンなジロジロ見られちゃ、運転し辛いだろ。それとも、なんだ、見惚れたか?」
「失礼しました。前を向いていますので、どうぞ運転に集中なさってください」
「おっと、可愛げのねえお嬢さんだ」

気付かぬ内に見つめてしまっていたことはの失態だ。出来る限り興味がないことをやんわりと主張し続けてきたというのに。
さてどうしたものか。は諦めを覚えつつも長い夜に抗う心の準備を始める。
ネオンが眩しい夜の街を車は進み、そびえ立つビルの駐車場へと滑り込む。
今日はここ、か。そのビルの中に入っているのはランチであっても財布に優しくない店ばかりだ。
車を降り、エレベーターが上昇していく中で、次第に小さくなる人々や周囲の建物を見下ろしながらは肩を竦めた。
予約したとメールにあった通り、政宗が名を告げれば店の奥へと案内される。
そこは、エレベーターから見えた景色と寸分違いない、夜景が美しく広がる個室だった。
思わず感嘆の声が漏れる。

「お前、こういうの好きだろ?」
「あ…はい。ありがとうございます」

思いがけず至近距離から声を掛けられ、驚きながらも礼を述べると満足げに微笑み、先に席へと着いた。
もうしばらく眺めていたいような景色だったが、そうもいかない。
も慌てて向かいの席へと着き、差し出されたメニューに目を通した。
確かにカクテルの種類が豊富だ。二度目に食事に誘われた際、ワインはあまり得意ではないと答えてから、政宗はが飲めるカクテルのある店ばかりを選んでくれる。
ならば、とバーに連れられたこともあったが、バー特有の雰囲気が苦手でそわそわしていたところを政宗に気付かれ、それ以来あまりバーには行かなくなった。
平日休日問わずに車で移動する政宗は酒を飲まない。それでもの好みを優先してくれる。

そう。毎度のことながら、の好みに合わせて行先を選び、が気に入るかどうか様子を窺う。
これだけの色男にそこまでされ、恋愛感情が浮かんで来ない方がおかしいのかもしれない。
しかし、不思議なことには政宗にそういった感情を持てずにいる。
理由は上司だからという形式的なものもあるが、の琴線に触れないといった要因が大きいのだろう。
は昔から、一緒に笑って騒げる友達の延長線上にあるような関係を好んできた。
その反面、友達のままで終わるケースも少なからずあったが、想い叶って付き合ったこともあった。
だからこそ、これまでが想いを寄せてきた異性とはまるでタイプが違って当然であり、恋愛に発展しないのかもしれない。
確かにかっこいいし、デキる男は違うと幾度も思わされてきたが、イコール恋愛感情になるとは限らない。それとこれとは別問題だ。

ただ、思わず見惚れてしまうのは否定できない程、人目を引く容姿を持ち合わせているのは確かだった。
オーダーをウェイターに告げる横顔、食事を口へ運ぶ姿、何気ない微笑み。
どれをとっても完璧で、うっとりとまでは言えないが、どきりとさせられるのは事実だ。
口説かれたら、ころりと落ちてしまうかもしれない。
恋愛感情はないと言っておきながら、そんな予想を勝手にしてみたりもする。
残念ながら政宗はそういった話題を持ち出すことはないため、の予想が当たるかどうかは実証できないのが現状であるが。
このあたりで本音を問うてみた方がいいのかもしれない。最近、はたびたびそう思うようになっていた。
だけど勘違いであればただの恥だし、仮にそういった流れになっても困るのは自身だ。
結局、抱えっぱなしの疑問をぶつけられず送り届けられて一日が終わる。それの繰り返しだった。
どうせ今日も、何一つ変化なく、この疑問は解消されずに過ぎていくのだろう。は、そう諦めていた。

「今日の店はどうだ?景色だけじゃねえ、料理の味もなかなかのモンだったろ?」

ぼんやりとしていた帰りの車の中、運転席からの声に慌てては意識を戻した。
奢ってもらって送ってもらっておいてうわの空だなんて、さすがに失礼が過ぎる。
少々見え透いているかもしれないが、機嫌を取る一言くらいは付け加えるべきだろう。

「はい、本当に美味しくて、つい食べ過ぎてしまいました。伊達部長はお店を選ぶセンスも抜群ですよね」
「Ha, たまには可愛らしいこと言ってくれるじゃねえか。だが一点マイナスだな」
「マイナス?何か気に障ることでも?」
「前々から言おうとは思っていたが、その呼び名、だ。オフィスでは構わないが、俺は会社を出てからもお前の上司でいなきゃならねえのか?」

見計らったように信号待ちに引っかかり、政宗の視線が向けられる。
ハンドルに両腕を乗せ様子を窺うように投げられる視線。周囲のライトのせい、だろうか。いつもより眩しい。
途端に恥ずかしくなったは、そっと顔を前へと向け、思わず弾んでしまった心臓を落ち着かせようと試みる。

「えーっと、外での職位はご不満でした?それなら、伊達さん、とでもお呼びするのはどうでしょう?」
「不合格、だな」

嫌な予感が押し寄せる。目的地、つまりの家に早く着いてくれと、表情を変えないよう落ち着いてみせながらも内心では必死に願っていた。
避け続けてきた問題がここへきて表面に現れ始める、それを悟るにはこの半年間は十分すぎる猶予期間だったから。
信号が変わり、再び車は動き出す。と同時に、政宗からの言及も止んだ。
はほっと一息ついたが、問題が何も解決していないことぐらい百も承知だ。
ネオンの煌めく繁華街を抜けて、車は住宅街へと入っていく。もう間もなく、の住むマンションが見えてくる。
このまま逃げ切れるだろうか、とはハラハラしていた。よほど焦っているのか、やけに心臓がうるさい。
何事もなくマンション前まで車は進み、いつものように礼を述べて半ば逃げるように車を降りようとした。
が、いつものようにはいかない。

「Wait. 逃げようったってそうはいかねえぜ?」

自らロックを外すため手を伸ばそうとしたその時、右手を掴まれ逃げ場を失った。
視線を合わせたら負けてしまう。そんな気がして、は相変わらず顔を政宗には向けず、「なんでしょう?」と答える。

「政宗、だ。今後俺のことはそう呼べ。You see?」

の嫌な予感は見事に的中した。しかし、これで終わりではない。
ここで、がどう答えるかによって、今後の展開は変わってくるのだから。
答えは決まっている。呼べない、だ。しかし、それを言うには理由が要る。
上司だから。しかし先程オフィスを出れば云々と釘を刺されたばかりだ。
ファーストネームで呼ぶ間柄ではないから。これがの本音だが、そう告げることで新たな問題が浮上してしまう。
ならばそういった関係になればいい、と話が進めば、困るのはだ。
これだけ二人で会う機会を作られているのだから、多少なりとも気があるのだろう、とはも感じ取ってはいたが、政宗と付き合うのかと考えてみると全く現実味がない。
上司と部下。その関係だけでも恋愛からは切り離したいのに、相手はあの伊達政宗だ。
いつだって羨望の的、お金持ちの御曹司、将来を約束されたキャリア。そんな男と果たしてが対等な関係を築けるか。それ以前に、恋人同士になるイメージが全く浮かばない。
結果、仮に交際を申し込まれたとしてもお断りしたいのがの本音だ。しかし断れば…それを危惧して、今まで政宗の誘いに応じてきたというのに。
保身をとるか、自己をとるか、道は二つに一つだが、絶対ではない。
外されることのない視線と離されずにいる右手への感触をシャットアウトしたい衝動を抑えつつ、は心を決める。
どちらも生かすことのできる可能性に賭けよう、と。

「あの、失礼かもしれませんが、下の名前で呼ぶのは、ちょっと…」
「なぜだ」
「理由がないからです。特別な関係にある方であればまだしも、外とはいえ私にとっては上司ですし」

腕を掴まれていた力が弱まった気がして、は恐る恐る右側へと視線を移す。
すると政宗は、正に鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな表情を浮かべていた。
何もそこまで驚かなくてもいいじゃない、どれだけ自信があったんだ、と思わず突っ込みたくなるほど目を丸くしている。
きっと女に断られた経験などないに違いない。そのプライドを、こんな平凡な女性社員に打ち砕かれたのだから、それはそれはショックだろう。
形式上、「すみません」と一言添えておいたが、聞こえているのかいないのか、政宗に変化はない。
非常に気まずい沈黙が続いてしばらくすると、ようやく我に返ったのか、ゆっくりと動き始めた。
あの有名な『考える人』を表現するかのようなポーズで、何やら思案に耽っている。

「Ah…理解が追いつかないんだが、俺とお前は付き合っていたんじゃなかったのか?」

今度はが豆鉄砲を食らう番だ。自覚がある程ぽかんと間の抜けた表情で、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。
何を言っているんだろう、この人は。思わず出かけた言葉をどうにか飲み込んだが、頭の中では言いたかったその台詞が円を描いて走り回っている。
確かに、この半年間、二人で会う機会は多々あった。毎週金曜日も固定されたように食事に出ていた。
しかしそれは、有無を言わさぬ政宗からの無言の圧力と、会社での居心地を懸念したの判断ゆえ。
口約束などありもしない。付き合う以前に、政宗から好意を伝えられた記憶だって、1mmもない。

「俺はてっきりお前も了承しているものと思っていたが」

混乱のループから抜け出せていないに政宗が追い打ちをかける。
ほんのわずかながら距離が縮められた気がしては思わず後ずさりをするが、背にはロックされたままのドアはさしずめ包囲網。
逃げ場がない現状を悟り、決死の覚悟で口を開く。

「了承も何も、交際を申し込まれた記憶はありませんし、」
「口約束があれば問題ない、と」
「そ、そういった意味では…。それに、考える時間も、」
「回りくどいのは好かねえ。今からお前は俺の女だ。いいな」

まるで、この資料をコピーしろ、とでも言うかのような口調。しかしこれは仕事の指示などではなく、私生活を揺るがす命令だ。
保身がどうとか会社生活への不安だとか、そんな尤もらしい建前なんて最初からなかったように考えることを放棄した結果、哀れみにも似た諦めを覚えたはYESもNOも言わぬままロックを外そうとしていた手をそっと下ろす。
静かな了承の合図に政宗の口角が上がる。その様子がやけに近いと感じたのは、気のせいなんかじゃない。
運転席に身を構えていたはずの政宗は、いつの間にやら覆い被さるように体を寄せていた。
吐息がかかる距離に政宗の顔が迫り、は降参とばかりに目を閉じる。
最後に視界に入ったマンションのエントランスから漏れる光は、見慣れている景色にも関わらずまるで別世界の映像のようだった。

これがの、ほんの少し愉快で不自由極まりない週末の始まり。

公開日:2013.05.29
伊達部長シリーズ第1弾。たぶん続きます。