そんな期待を胸に対面のときを迎えた私だったけれど、物の見事に打ち砕かれた。
「君、誰?」
なんの感情も持たない、いや、疑念や嫌悪は多少含まれていたかもしれない。そんな表情で、初対面の相手にそう問うた。
対する私は、驚きや困惑をどうにか堪え愛想笑いを浮かべ、隣では、沢田さんが必死にその間を取り繕おうとする。
「ヒ、ヒバリさん!こないだ話した、ヒバリさんに関わる庶務全般を担当してもらうさんです。」
「はじめまして、 です。よろしくお願いします。」
きっちり斜め45度に頭を下げ、丁寧にお辞儀をする。けれど、ゆっくりと頭を上げて見えたその人は、先程となんら変わりのない表情で一言。
「ふうん。」
一瞥をくれたのもほんの一瞬。さも興味がないといった顔で、手元の書類に視線を戻した。
仮にも上司になる人間だ。失礼のないように、と気を払っていた私だったが、さすがに呆気にとられ、間抜けにも口を開けてぱちくりとまばたきをしてしまった。
そして沢田さんが退室し、仕事はありませんか、と一歩踏み出した私に、今度は視線すら寄越さずこう言った。
「君はいつまでそこに突っ立ってるの。群れるのは嫌いだ。出て行ってくれる?」
しばらく言葉が出なかった。
引き続き書類に目を通しながら、まるで自分以外そこには存在していないかのように淡々と1枚1枚書類をめくっている。声も出ぬままその様子をしばらくぽかんと眺めていたが、徐々に込み上げてきた怒りが顔を出す。
「…失礼しました!」
遠慮もなく語尾を強め、足音を立てながらその部屋をあとにする。扉を閉める直前、横目に見えたその人の視線は、相も変わらず書類に向けられていた。
第一印象は最悪だった。たぶん、お互いに。私は私で怒り心頭だったし、彼も彼で私の態度に呆れていただろう。
その後、どうしたものかと廊下をうろうろしていると獄寺さんに見つかり、宥められ諭され半ば説得されるような形であの部屋に戻った。
「何か用?」
「先程は、失礼致しました。何かお手伝いできることがあればなんなりとお申し付けください。」
文句を言ってやりたい気持ちをぐっと堪え、謝罪と共に頭を下げる。
別に、仕事はここでなければならない理由はない。探せば他にもあった。ただ、知人の紹介で口利きしてもらったこともあり、お給料もよかったし、何より、このまま引き下がるのは負けた気がする。辞めるわけにはいかなかった。
「さっきとは打って変わって丁寧だね。」
頭を上げるタイミングを見計らっていると、そう声をかけられそちらに目を向ける。なんとも言えない、奇妙な笑み。柔和さはまるでなく、獲物を捕らえた獣のような、そんな笑みだった。思わず背筋が凍る。
「あ、いえ、さすがにあのような態度は失礼が過ぎると思いまして…」
身振り手振りを加えつつ必死に弁解を試みる。その間も、あの奇妙な笑みを浮かべたまま、先程の光景が信じられないほど私を凝視している。
「ふうん。まぁいいよ。草壁が日本に戻って雑務が溜まっていた所なんだ。これ、お願い。」
書類の束を指差し、そう告げる。山積みになった書類は、「溜まっていた」にも程がある。もしかして嫌がらせなのでは、と疑心暗鬼になりながらも、その束を丸ごと抱えた。腰にくる重さだ。あまりの重さに足がガニ股になりながらも、よろよろと自室へ持ち運ぼうとする。
「どこ行くの。」
「自室へ…戻ろうかと…思いまし、て…。」
息切れしながらもそちらを向いて返事をしたというのに、大きなあくびを返される。おまけに、あの奇妙な笑みで始終こちらの様子を窺っている。これは、面白がってるとしか思えない。
「いいよ、ここでやればいい。僕は群れるのが嫌いだけど特別に許してあげる。」
そう言って、雲雀さんが座る席の脇にある小さなテーブルを顎で促した。この書類を持ち歩かずに済むのは非常に助かる。助かるけれど、なんだか嫌な予感しかしない。
そして、その嫌な予感は外れなかった。
書類を片付けようと必死になる私を他所に小鳥と戯れたり、難解な文章を解読しているところを見計らってお茶を淹れるよう頼まれたり、機嫌が悪くなるとトンファーを出して追いかけられたり、それはそれはもう、退屈のしない日々を強いられた。
1週間耐えただけでも褒めてほしい程に、過酷な毎日。だけど私の負けず嫌いに火がついて、1ヶ月、2ヵ月と時は過ぎていく。3ヶ月が経つ頃には、いつの間にか雲雀さんとまともに会話ができるようにまでなっていた。
「先日お話していた件は、山本さんが担当されることになったそうです。」
「ふうん。つまらないな。暴れ足りないよ。」
「敵対するマフィアに殴りこみに行ったばかりじゃないですか、雲雀さん。」
「あの程度の獲物じゃ満足できない。」
澄ました顔をしているが、その心中穏やかでないことは空気で悟れる。そして暇つぶしに、とトンファーを振るいながら追い回されるのは目に見えていた。
「鬼ごっこは、今日は控えてください。片付けなきゃならない仕事があるのはご存知ですよね。」
ぺこりと頭を下げつつも遠慮せずにそう告げると、「知らない。」と不機嫌そうに返される。こんなことが言えるようになったんだから、大したものだと思う。数ヶ月前なら確実に咬み殺されていた。この人は、相手が女であっても容赦しないのだ。
そしていつものように、いつもの席に腰掛けて、書類の山に手をつける。今日中に提出しなければならない書類がたっぷりとある。今朝になって雲雀さんから渡されたものだ。
「ねえ。」
「はい?なんでしょうか?」
ペンを走らせる音、それから紙を捲る音。それ以外は何も聞こえていなかった、そんな静寂を断ち切ったのは雲雀さんだった。またお茶でも頼まれるのだろうかとこっそり溜め息を吐きながら顔を上げる。
「君は、マゾなの?」
全く表情を変えずにそんなことを聞かれたものだから、思わず目が点になる。これは、雲雀さんなりの冗談なんだろうか、それとも何か意図があるんだろうか。真意を汲み取れずにいると、また口を開く。
「辞めさせようとあれこれ策を講じたのに、君は弱音すら吐かない。」
発せられた言葉の意味を考えること数十秒。ようやく理解が追いついた。なるほど、あの嫌がらせの数々は私を辞めさせたいがためだったのか、と。
「あいにくですが、私は負けず嫌いなんですよ。」
「ワオ、奇遇だね。僕と同じだ。」
「負けず嫌いといった点では雲雀さんより上だと思います。」
「言ってくれるね。面白いな、君は。」
見慣れたあの奇妙な笑みではなく、どことなく穏やかな笑みを見せる。これまでの会話より、そちらの方に驚いた。こんな顔もできるんだ、なんて、妙に感心していると、雲雀さんが立ち上がる。構えるように思わず背筋が伸びた。
そしてつかつかとこちらへ歩み寄り、私の隣に来ると立ち止まる。
「…なんでしょう?」
ごくりと唾を呑んでから恐る恐る投げた問いはすぐに飲み込まれた。ちゅ、と小さな音を立てたキスによって。離れたかと思えば、またキスをされ、幾度も繰り返される。抵抗しようとか、理由を聞こうとか、私の行動を制止するような、優しさを帯びたキス。
「ひば、り、さん…?」
「気に入ったよ、。」
ようやく言葉を発することができたかと思えば、かぶせるように雲雀さんが初めて私の名前を呼んだものだから、私はそれ以上なにも言えず、再びキスを受け入れるしかできなかった。触れては離れ、触れては離れ、そうして繰り返されるキスを、ただ受け入れる。ほんのり色付く頬にも気付かぬままで。
雲雀恭弥。爽やかでも、温和でも、穏やかでもないけれど、確かに彼は、その名に相応しく、春を告げた。囀る小鳥のごとく、啄ばむようなキスで。
公開日:2015.10.04
企画「どうする」提出 お題「啄ばむ」