おわりから

忘れた恋のつもりだった。
ぐしゃぐしゃに丸めて投げ捨てた恋文のように、宛て先に届くことなく、消え行く運命だとは思っていた。
それが、どうして。
この町で騒ぎが起きれば、夜の通りで酒の臭いを嗅げば、縁のなかったパチンコ屋の前を通れば、立ち止まりその姿を探してしまう。無意識に、反射的に、「ちゃん」とふざけた声音で呼ばれたかのような温度で、ごくごく自然にそちらへ目を向けてしまう。
そしてその姿がないことでようやく、犯した失態に気付く。

「嫌になっちゃう。」

声に出すとその恋は、自分に吐いた嘘の蕾が涙となって咲き乱れる。
泣くのは辛かった。けれど、にとって何より、その男、坂田銀時との時間を思い出すことが辛かった。
自ら終わらせた恋だと言うのに。





出会いは驚くほど単純なものだった。
大江戸スーパーを出た次の角を曲がり、小路に入ろうとする寸前、一台のスクーターと接触する。スクーターは急ブレーキ、も咄嗟に気付いたものの避けきれず転倒。駆け寄った男と視線がぶつかる。
落ちたのは、恋なんかではなく、耳を疑う言葉だった。

「やっべェ、やっちまった。減点されたら次こそ免停だっつーのに。」

当然目を丸くするに気付きハッとした銀時は慌てて転倒させた相手を気遣うような言葉を投げかけてきた。

「え、いや?あー、すんませんねー。おたく、大丈夫?」
「大丈夫じゃありません。痛い、痛い、足が痛い。」

腹を立てたは子どものように痛い痛いと繰り返した。何も嫌味で言っているわけではなく転倒した際に捻ったらしい。足をさすりながら再度「痛い」と睨みながら告げれば、飄々としていた態度は徐々に色味を変えていく。

「マジで、え、どこが?どーゆー風に痛ェの?医者とかかかっちゃうレベルのアレ?入院から通院も保険でヨロシク的な?」

口調こそふざけているものの、なかなかに焦っているようだった。は勝ち誇ったように、そうだと相手の問い掛けを肯定する。腹を立てたから、それだけではなく、何故かこの男を困らせてやりたい、そんな衝動に駆られた。だから銀時が焦れば焦るほど胸がスッとした。
ある程度で見切りをつけると、そろそろ許して病院へ行こうかと腰を上げる。本来ならば示談なり警察へ連絡するなりが必要となる事故であるはずが、まるで友人との喧嘩に終わりを告げるような心持に移ったはその場を去るために立ち上がろうとした。しかし、その時。

「うわっと、どこ行くのよ。とりあえず病院送ってくからよ。」

ふわり、と。スローモーションのように視界が変わり、気付けば抱きかかえられていた。成人女性の体をいとも容易く抱き上げる力があるようには見えなかった、そんな、男に。

「ハイ、乗って。ンで、掴まって。お願いだから運転中はおとなしくしててね。」

淡々と、それでいて漂う焦燥感。言葉を返す間もなく、つい先程接触したばかりのスクーターの後ろに乗せられ、掴まれと促される。それ当然のように従えば、瞬く間にスクーターは音を立てて発車した。

それが、銀時との出会いだった。
調子のいいその男に騙されるように流され、接触事故などなかったかのように外科を受診させられ、いざ会計という場になってほとんど空っぽの財布の中を見せられる。何が悲しくてぶつけられた事故の医療費を自己負担しなければならないのか。そんな疑問が浮かびながらも支払いを済ませた。
それ以来、見舞いだの詫びだの、あれこれと理由をつけて手ぶらでやって来ては、結局が食事を作ってやり、銀時はそれを食べて小一時間談笑をして帰っていく。その姿は通い妻ならぬ通いヒモに違いなかった。

そんな二人が「そういう」関係になったのはいつのことだったか。互いに酔った勢いで事に至ってしまった、あの夜だ。終わる頃には酔いも醒め、微妙に置いた距離が一層気まずさを誘った、あの夜。

「あー、なんか…、アレだな…。」
「アレって何よ、アレって。」
「付き合っちゃうか。」
「そうだね…って、ええ??」
「今更じゃねェ?言葉にしねーだけでそんなようなモンだったろ。」

そう言われてみれば、そうですね、などと答えてしまえるような、温度で。
一度の過ちをきっかけに、二人は晴れて恋人という関係に行き着いたものの変化はあまりなかった。の部屋へ銀時が訪れ、食事をして、談笑をして。変わった事と言えば、その後セックスをし、そして帰る。いつもの工程に一手間加わっただけに過ぎなかった。
銀時とのセックスは異常なまでに濃厚だった。普段は淡白な男が、いざその時を迎えると人が変わったように攻め入る。が白旗を揚げようとも、むしろそれを楽しむかの如く猛攻が再開される。そんな、激戦地のようなセックスだった。

しかし結局、何も変わらなかった。銀時の素性を知れば知るほど謎めいていくような気さえした。一面に載るような出来事の裏には銀時の活躍があろうとも、育ち盛りの少年少女を雇っていようとも、万年金欠にも関わらずパチンコに酒三昧であろうとも、その本質に迫れはしなかった。にとって銀時は、綿菓子のようなその髪と同じく、ふわふわと空に浮かぶ雲にも似た存在だった。
だからは悟った。近付けば近付くほど好きになっても、どれだけ体を重ねても、心の中まで交わることは決してできないのだろう、と。
分かっていたから、間違えても「好き」だの「愛してる」だのは口にしなかったし、向こうもそんな言葉を寄越すことはない。
興味本位で一度だけ聞いてみたことはあったが、答えは正に予想した通りだった。

「銀時って、私のこと好きなの?」
「ちょっとちゃん、何言っちゃってんの。俺ァそんな柄でもねーようなこと言わねェよ。」

くしゃくしゃと頭を掻きながら気だるそうに、期待に反せず頭の中でイメージしたままの映像がそこに映し出された。だからもそれ以上は追及しなかったし、自分はどうだと畳み掛ける真似もしなかった。
その日を境に、はこの関係を終わらせようと考えるようになっていった。何も変わらない、交じり合うことのない心と心を通わせようとする作業など、無駄だとしか思えなくなっていた。
いつもどおりに食事を終えて、談笑し、さて次の段階へと突入しましょうかという一歩手前では銀時を制止する。

「ねえ、もう別れよう。こういう関係嫌いなの。」
「マジで言ってんの?」
「マジで言ってんの。」
「…わかった。」

理由も問わぬまま、相変わらず気だるそうに立ち上がり、「じゃ、また」といつもと変わらぬ表情で帰っていく。その後姿をは唖然と眺めていた。こんなにあっけなく、終わってしまうものか、と。
別れたくない、と言ってほしかったとまでは言わない。なぜ、どうして、そう問うてほしかった。が抱える不満を聞いてほしかった。しかしそれも叶わず、ぼんやりと薄暗い部屋にぽつりと一人取り残され、笑えるほどにそんな姿が似合う恋は終わりを迎えた。





思い出を辿るには寒すぎる夜にも関わらず、随分と長いこと記憶を辿ってしまったものだ。は小さく溜め息を吐く。頬を伝っていた涙はいまだにゆっくりと流れている。それを拭うことはしない。泣いて、全て洗い流してしまいたかった。その声も、鈍色に光る髪も、始終けだるそうな瞳も、全て。
涙を流したまま冷え切ったテーブルに頬を預ければ、ひやりと刺さる。
そして一瞬遅れて耳に届いたのは、エンジン音。足音だけで分かるとはよく言ったものだ。こんな機械音ですらその耳は確かに反応を示す。続いてブレーキ音が聞こえ、タンタンと階段を上がる靴は間違いなく黒いブーツだろう。その足音がドアの前で止まった瞬間にはの体は玄関にあって、その手でドアを開けていた。

「あー、なんか…、アレだな…。」
「アレって何よ、アレって。」
「別れるとかナシ。…もっぺん付き合おうぜ。色々、ちゃんとすっから、俺。」
「うそつき。」
ちゃん、そこは信じてくんねーかな?」

見慣れぬ苦笑いを浮かべ、後ろ手でドアを閉めたと思えば冷えた手と涙に濡れた手が重なる。

「…わりィ、泣かせた。」
「もう泣かせないって約束して。」
「あー、ハイ…。」

こつん、と額をぶつけられながらも謝罪をされ、戸惑いの中でが約束を乞うと、意外にもそれは承諾された。気恥ずかしそうにそらされた視線を愛しく思うの胸に、もう嘘はない。
そしてようやく、ずっと見過ごしてきた本音を告げる。

「好きだよ、銀時。」
「何を今更。」

同じ言葉は返ってこなかった。けれども構わない。泣かせられても構わない。好きだの愛してるだの、そんな言葉は要らないから、二度と離さないで、と告げる前に唇を奪われた。かぶりつくような大袈裟なキスは、甘くて甘くて喉が焼けそうだ、とは小さく笑った。

これが、二人の本当のはじまりの物語。

はじまりまで

公開日:2015.02.04